プレイリストも見る/シビル・ウォー アメリカ最後の日
『シビル・ウォー アメリカ最後の日』(以下『シビル・ウォー』)を見て、音楽が浮いていると思った。
映画でかかる音楽いわゆる劇伴には、二つの種類がある。
一つはその映画のために書き下ろされるオリジナルスコア。たとえば『スターウォーズ』における「帝国のテーマ」、『ゾンビーバー』における「ゾンビーバーのテーマ」などがこちらに当たる。
対するもう一つの形は、その映画のために作られたわけではない既存の楽曲を転用するという手法。宇宙を旅するスペースオペラでありながら地球のポップソングを流し続ける『ガーディアンズ・オブ・ザ・キャラクシー』が好例にある。
使い分けは映画次第であり、予算やスケジュールの交渉次第になる。どちらかに統一されたり、オリジナルスコアの並びにみんなが知ってる(という前提の)一曲が印象的に挿入されたり、いろいろ。用途もいろいろだ。盛り上がる場面、暗い画面、「ここ笑いどころですよ」という合図、人物の喜びや悲しみ……劇伴には、画面で起こっていることが伝わるように観客を誘導する機能がある。
その点において『シビル・ウォー』も変わったことをしているわけではない。映画を製作したA24から公開されている劇中楽曲のプレイリストには、ごく普通の形としてオリジナルスコアと既存曲が並べられている。
聴き返してみると、違和感を覚えた楽曲はどれも既存の楽曲だった。たとえばプレイリストの一曲目、Lovefingers/Silver Apples。曲が流れるのは映画の冒頭であり、ここまでは映像も公開されている。音楽は02:10〜。なお流血を伴う暴力描写があるため視聴の際は注意。
やはり浮いている、と思う。
映画は大統領を名乗る人物の演説放送から始まり、主人公が夜景の爆発を目撃したところで音楽が鳴り始める。ニューヨークの鳥瞰に切り替わったところでタイトル。空撮が映す昼の街は一見何事もなく平和だが、映画のあらすじからしてもちろんそんなはずはなく、すぐに不穏な影が見えてくる。火災は放置され、車通りは異常に少なく、車窓に映る人は武装している。暴力と抑圧の遍在。
Silver ApplesがLovefingersを発表したのは1968年のニューヨーク。単調なベースと警報のような電子音は不穏に違いなく、乾いたドラムと呟くような歌声には生活的な体温がある。愛の情景を歌う歌詞は現実を離れて詩的だ。そう踏まえて見返すと、画面からズレているわけではないと思えてくる。むしろ合いすぎている。
つまりこの違和感は、音楽が場面を強調しすぎていて、そのわざとらしさに冷める、ということらしい。
画面では水の供給を求める市民が警官と衝突。分離勢力の自爆によって最悪の結末を迎え、同時に物語の主人公はもう一人の主人公と出会う。Lovefingersはその直前まで、平和に見える一瞬も暴力の瞬間も流れつづけている。この世界で日常になってしまったものを強調するように、違和感を覚えさせるほど極端に。
映画はその後も要所で既存楽曲を挿入し、過剰な誘導で居心地を悪くし続ける。Rocket USA/Suicideが流れるのは合流した主人公たちがニューヨークからホワイトハウスへ出発するシーン。我が物顔で鳴るシンセサイザーに命がけの悲壮感はない。なおSuicideの結成はSilver Appleが(一度目の、ごく短い)活動を終えた1970年、同じくニューヨーク。電子音楽の先駆者から影響を受けたとされている。
Say No Go/De La Soulは主人公たちが無謀に取材した銃撃戦の終わりに。画面では降伏した兵士が捕虜にもされず銃殺される。陶酔した兵士は重火器で死体を撃ち続け、ジャーナリストの一人も楽しげに戦果を喜ぶ。ドラッグへの抵抗を唱えるリリックが空しい。Sweet Little Sister/Skid Rowが流れるのは、かなり唐突でほとんど馬鹿馬鹿しいカーチェイスごっこのシーン。こいつらなんかテンション上がってるけどそんなことしてる場合か? と思うこと請け合いの名場面だ。
ご機嫌な選曲。まるで世界の広さと人との出会いが個人の問題を解きほぐすロードムービーである。実際、そうとも言える映画なのだ。物語はニューヨークからワシントンD.C.へ、それも幹線道路を避けてゆっくりと進む。取材のために集まった主人公たちの年齢構成は疑似家族的である。そしてだからこそ、常に違和感がある。世界は個人の問題を解決するどころか見れば見るほどめちゃくちゃで、出会う人間は片っ端から自己中心的。誰も彼も暴力と敵の排除を厭わない。
あらすじの通り、映画は戦場に飛び込むジャーナリストたちの視点で進行する。主人公たちはあくまでも客観的な取材を標榜し、内戦状態にあるどの勢力の支持も表明はしない。演出の強い楽曲と感情を消すような言動の繰り返し。ロードムービーどころではない世界が、ロードムービーのように語られていく。
物語の終盤。主要人物のひとりが死に、旅の仲間が悲嘆に暮れる。流れる楽曲はBreakers Roar/Strugill Sympson。映画らしく悲しみを引き立てる。筋としておかしな事はないが、他の映画でも冷めかねないほど過剰な演出だと思う。ここまで散々兵士や民間人の死を無感情に見てきたくせに、結局親しい人の死にはダメージを受けるんですね、と思ってしまう。感動などするはずがない。しかし下手な映画なら下手な演出で済む話でも、この映画を見てきた観客が失望することはない。物語と観客に冷静な距離を取らせる『シビル・ウォー』の姿勢は一貫している。
映画のクライマックスは再び銃撃戦の取材。歴史的な瞬間を迎えようとするこの場面では一転して音楽が流れない。既存曲どころか劇判自体がない。観客は劇中人物と同じ銃声と怒号だけを聴き、遠景の多い戦場を見る。兵士の顔や表情は終盤まで映らない。アクション主体の映画ではないからこその客観、というより傍観的に命が失われていく。
そして人知を超えた天啓あるいは職業者の直観と、その結果の瞬間が訪れる。音楽のない画面の中で、その顛末はジャーナリストたちの感情を動かさない。意外ではない。その超人的な態度こそ彼らが目指したものだった。
映画が終わる。エンドロールが始まる。画面には戦果と笑顔で写真に収まる兵士たち。流れるのはDream Baby Dream/Suicide。まるでハッピーエンドだ。そしてやはり確かにハッピーエンドでもあるのだ。善悪はともかく戦闘は終わった。支配体制は破られた。主人公たちは不屈の精神によって、間違いなく歴史に残る取材に成功した。彼らは成し遂げたのだ。めでたしめでたし!
当然、そんなことは誰も信じない。観客はたった今、誰の手にも余る世界にそれでも立ち向かおうとする人の努力と献身が、結局は感情の物語として整理される瞬間を見たのだから。
『シビル・ウォー』を見てきた観客からすれば、歌詞が繰り返す「Dream Baby Dream……」も反語でしかないことは露骨なほど明白だ。それは居心地の悪さを正視せよと呼び掛けている。OK、映画の世界はただのフィクションで、物語として進んで、夢のような結末を「それで良い」と受け入れたところだけど……そっちはどうだい?
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