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他との比較なしに自分をデザインできるのか


他人と自分を比較しながら生きるのは、とても疲れる。

上を見たらキリがないし、人は皆それぞれ違うのだから、上とか下とか言ってたってしょうがない。
だから、多くの偉い人たちは「他人と比べるな、昨日の自分と比べろ」みたいなことを言う。

それでも人は、どうしても他者と比べてしまいがちだ。
だから、妬み羨み、悩んだり苦しんだりもするんだろう。

これは別に日本に限ったことではないんだろうけど、たぶん文化圏の間で程度の差はある。
アメリカみたいな超多民族国家なら、色々な人がいすぎて比較にならないようなことも多いのかもしれないが、
日本社会は特にそういう意味での多様性がないから、どうしても周りと比較してしまう機会は多いし、いっそ多数派に溶け込んだ方が楽なのかもしれない。


自分は自分だ。

であるにも関わらず、どうして比べてしまうのか

そこには、異質なもの同士の間に優劣を定めることはできないというのが真であると同時に、
あらゆる物事は何かと比較することでしか評価できないというのもまた真であるという、ある種のジレンマがある。


何においても、『軸』をどう設定するのかというのは非常に重要な問題だ。

例えば、「東大に合格したい」という願望は、入学試験の結果を待てば明確に評価できるが、
しかし、「頭が良くなりたい」という願望は、おそらく他者との相対的な軸によってしか評価できない。

どこからが頭が良くて、どこまではそうではないのか。
その基準軸は、人によって違うだろう。
絶対的な指標に基づいて判断することは不可能だ。
もしも「自分は頭が良い/悪い」と断言する人がいたとしたら、
それは、その人が思い描く「社会」全体でどのくらいの位置にあるかというのが基準になっているか、あるいは、誰か特定の個人と比較しているのか、
いずれにしても、(おそらくは無意識に)他者との比較を前提とした相対的な軸をもって評価しているに過ぎない

ちなみに、「偏差値70以上になりたい」なら定量的な願望だからいいのかというと、偏差値と言う概念自体が母集団全体の中での相対的な位置を表す指標なので(以下略)


「東大に受かりたい」と「頭が良くなりたい/偏差値70以上になりたい」とについて考えてみると、DoBe かという違いがあることに気付く。

基本的に、自分のキャリアというものを描く時には、To DoよりもTo Beを考えるべきだと言われるし、僕自身もそういう考え方だ。
自分も社会も、状況は常に変化し続けているし、見える世界が変われば、やりたいことだって変わるのが普通だ。
別に、一度決めたことを最後までやりきらなきゃいけないなんてことは全くないし、やりたいことがコロコロ変わったっていいと思っている。

ただ、「どうありたいのか」という、自分のコアを形作るものさえ変わっていないのであれば、それは「ブレている」ことにはならないはずだ。

とはいえ、何らかのきっかけでTo Beすらも変わることだってあるだろう。
それも、別にいいと思う。
ただ、To Beが無い状態でTo Doを語るのは、『芯』が無いと言わざるをえない。


要するに、ここで何が言いたいかというと、
人は、To Beの形をベースに自分を表現したり、思い描いたりするのが理想なのだけれど、
しかし、そこから他との比較という行為を完全に排除することはできないのではないかと思うのだ。

昔から「人は一人では生きていけない」と言われる。
この言葉は、「周りをもっと頼れ」という意図で使われることもあれば、
「周りに迷惑をかけるな」というような文脈で用いられることもあるだろう。
けれど、もしかしたらその根底には仏教における『空』や『縁起』という思想にも通ずるものがあるのかもしれないと思う。
であるとするならば、他を無視して自己の存在を思考すること自体が不可能というものだ。


なんだか小難しいことを考えてしまった。
別に今何か悩んでいるというわけではない。

ただ、何をどう考えたって他との関係は無視できないということに気付いて、面白いなあと感じただけだ。
宗教のことなんて全然興味も無かったのに、結局同じようなところへ行き着いたりするのもまた面白い。

どうやら、そういうものらしい。

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