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読書感想文をどこまでも書いてしまう子どもだった | noteをはじめた理由


読書感想文をどこまでも書いてしまう子どもだった。

気がつけば10枚。言いたいことがありすぎて全くまとまっておらず、口語で書くなと怒られた。

本は好きだけど、国語は得意じゃない。テストに出てくる小説の文章文題は、自分の解釈にバツがついていることも少なくなかった。

古典の授業では、常に睡魔と闘っていた(そしてあっさりと負ける)。


家族や、仲のいい友人、いや少し関わりを持った人にはバレてしまっているだろうが、わたしという人間の日本語力は極めて低い。

単語や熟語のふわっとしたイメージでインプットしているようで、独自の読み方やニュアンスで堂々と発して間違っている。

オリジナルの造語も作りがちだ。

中学生の頃、「盗み聞き」を「どろぼう耳」と言っていたことなどは定期的に家族の笑い話として挙げられ続けている。

自分では気がつけないのでどうしようもない。


それでも、ことばは好きだ。

見たものや感じたことを自分なりのことばにしたいし、なるべく思ったことそのままを人に伝えたい。使っていて気持ちのいいことば、だれかを傷つけないことばを使いたい。

生まれた頃からお喋り人間なので考える前にことばが口から出てしまい、「あれは違ったなぁ…」と反省するなんてことはこれまで数えきれないほどある。


文才があるわけでもないけれど、自分なりのことばたちを文にすることも好きだ。

ここ数年で文章をつくることに対して軽やかになれて、少しずつ、自分のことばが出てきやすくなってきた。

ぎこちなく並んでいた自分のことばたちが、少しずつ、呼吸しはじめたような気もしてきた。


昔から書いたこともないのに母には自称エッセイストと言っていて、最近になって友人にもふざけながら話すようになった。(笑って頷いてくれるすてきな友人しかいない)

そんなふうにしていたら、これまでインスタグラムに投稿していたミニエッセイ(と呼ばせてもらおう)とは別に、もっと長い文やリズムのちがう文などもっと自由にいろいろと書いてみたくなった。

なので、留学時代にちょこっと試していたことのあったnoteを始めてみることに。



かっこよく書こうとすると後から見返していやになってしまうので(これは何度も経験があるのだ)、気取らず、気ままに。ときにだれかに向けて、とはいえ、いつだって自分のために。

日常のこと、旅のことを書いていこうとおもうのです。

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