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『諸言語における福音書』アイヌ語選段の訳

1804 年設立された、聖書の翻訳が専門なキリスト教慈善団体である英国外国聖書協会(British and Foreign Bible Society)が1930年に出版した『諸言語における福音書』(The Gospel in Many Tongues)では、アイヌ語聖書訳の一部が選ばれている。原典は1897年の出版された『アイヌ語訳新約聖書』(Chikoro Utarapa ne Yesu Kiristo Ashiri Aeuitaknup oma Kambi)で、アイヌ語へ訳したのはバチェラーによるものである。選ばれた段落は、新約聖書において有名なヨハネによる福音書3章16節で、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(新共同訳)の節である。日本語の他の訳版や、現代の諸言語の訳を後章にて比較のための列挙する。バチェラーは、ギリシア語から訳されたとあるように、例えば現在通行の他の言語の訳で抜けていることが多い、γὰρ「なぜなら」(日本語では「実に」と訳されているか?)が訳されているなど、原典忠実の性質が見て取れる。

『諸言語における福音書』前言
バチェラー訳『アイヌ語訳新約聖書』書影

アイヌ語訳

翻字

『諸言語における福音書』アイヌ語の選段書影

5 AINU.  Yezo, N. Japan
Inambe gusu n yakun, Kamui anak ne koro shinen ne Poho koropare pakno moshiri omap ruwe ne, nen ne yakka nei Poho eishokoro guru obitta aisamka shomoki no nei pakno ne yakka ishu ramat koro kuni ne kore nisa ruwe ne.  1897

『諸言語における福音書』アイヌ語の選段の翻字

明らかに ne → n 誤字があった以外、特筆すべきところはあまりない。原本『アイヌ語訳聖書』と比べてみよう。

『アイヌ語訳新約聖書』原本書影

Inambe gusu ne yakun, Kamui anak ne koro shinen ne Poho koropare pakno moshiri omap ruwe ne, nen ne yakka nei Poho eishokoro guru obitta aisamka shomoki no nei pakno ne yakka ishu ramat koro kuni ne kore nisa ruwe ne. 

『アイヌ語訳新約聖書』原本翻字

釈文

現代的なアイヌ語ローマ字表記に直すとこうなる。

Inanpe kusu ne yakun Kamuy anakne kor sinen ne Poho korpare pakno mosir omap ruwe ne, nen ne yakka ney Poho eysokor kur opitta a=isamka somo ki no ney pakno ne yakka isu ramat kor kuni ne kore nisa ruwe ne.

現代アイヌ語表記(ローマ字)

ローマ字特に大きな違いは以下である。

  1. b → p, g → k:アイヌ語は音韻上清濁音(有声音と無声音)を区別しないため、現代的な表記は殆ど清音のみの表記になっている。

  2. m → n:現代の表記では多くの場合、区別されない m(np も mp も mp と発音される)は n と書くことが多い。但し、m と書く人も多い。

  3. sh → s:アイヌ語で、sh も ch も音韻上は s と c と区別しないため、一字一音の経済性の原理によって、現代的な表記では一文字とすることが殆どである。

  4. VrV → Vr:アイヌ語、特に北海道アイヌ語では、語末の r の後に弱い母音が続けて発音されるが、単独の r と区別されず、rV と区別されるため、r の後続母音を表記しないのが一般的である。

  5. a → a=:アイヌ語の人称接辞(人称接語)に関しては、かつては表記されてこなかったが、今ではローマ字において表記することが一般的で、「=」二重横線によって分割される。「-」一重横線で表記する人も多い。

  6. -i → y:アイヌ語の音韻分析において、今はもっぱら二重母音の閉じ部を CV(C) の /y/ /w/ という接近音(半母音)に分析される。

  7. ei → ey:アイヌ語、特に沙流方言の表記においては、連音化が発生するため、特定な接辞の後ろにくろ場合、挿入音や音変化が起きるため、y や w で表記することが多い。

一般的に通用されているカタカナ表記に直すと以下のようになる。

イナンペ クス ネ ヤクン カムイ アナㇰネ コㇿ シネン ネ ポホ コㇿパレ パㇰノ モシㇼ オマㇷ゚ ルウェ ネ ネン ネ ヤッカ ネイ ポホ エイソコㇿ クス オピッタ アイサㇺカ ソモ キ ノ ネイ パㇰノ ネ ヤッカ イス ラマッ コㇿ クニ ネ コレ ニサ ルウェ ネ

現代アイヌ語表記(カタカナ)

解読

この章では、句ごとに分析・解読を試みる。

Inambe gusu ne yakun
Inanpe kusu ne yakun

  • inanpe どれ < inan-pe どの-もの

  • kusu 為・故

  • ne である

  • yakun ならば

「なんのためであるなら」→「なぜなら」(γὰρ)

Kamui anak ne koro shinen ne Poho koropare pakno moshiri omap ruwe ne
Kamuy anakne kor sinen ne Poho korpare pakno mosir omap ruwe ne

  • Kamuy

  • anakne は < an-yakne (で)ある-なら

  • kor 所有している

  • sinen 一人

  • ne である

  • Poho ~の子供

  • korpare, sg. kore ~を~に与える[複数]

  • pakno ~まで、~ほどに < pak-no まで-に

  • mosir 国・土地・島・世界

  • omap 愛する・可愛がる

  • ruwe ne のだ < ruwe こと + ne である【推理の証拠性】

「神は自分の一人の子を人々に与えるほど、世界を愛しているのだ」

nen ne yakka nei Poho eishokoro guru obitta aisamka shomoki no
nen ne yakka ney Poho eysokor kur opitta a=isamka somo ki no

  • nen

  • ne である

  • yakka でも

  • ney どこ

  • Poho

  • eysokor ~を信じる < e-i-so-kor ~についてものを真実を持つ?

  • kur

  • opitta 全部

  • a=isamka (4人称)がなくす

  • somo ki no せずに < somo ない + ki する + no に

「誰であってもどこのその子を信じる人々皆神が亡くさずに(皆が亡びずに)」

nei pakno ne yakka ishu ramat koro kuni ne kore nisa ruwe ne
ney pakno ne yakka isu ramat kor kuni ne kore nisa ruwe ne

  • ney どこ

  • pakno まで

  • ne である

  • yakka でも

  • isu 生きる

  • ramat

  • kor 持つ

  • kuni するだろう、するはず、すべき

  • ne である

  • kore 与える

  • nisa しまう・し終わる

  • ruwe ne のだ

「どこまでも生きる魂を持つであろうことを神が与え終わったのだ」→「いつまでも生きる命を持つだろうように与えたのである」→「永遠の命を持つようにしたのだ」

以上をまとめると「神は自分の一人息子を人々に与えるほどに世界を愛され、その子を信じる人々であれば誰であっても亡びることなく、いつまでも生き続けられるようにしたのである」

他言語訳

日本語

  • 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

  • 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(新改訳聖書)

  • 「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(口語訳聖書)

  • 「実に神は、ひとり子をさえ惜しまず与えるほどに、この世界を愛してくださいました。それは、神の御子を信じる者が、だれ一人滅びず、永遠のいのちを得るためです。」(JCB リビングバイブル)

  • 「それ神はその獨子を賜ふほどに世を愛し給へり、すべて彼を信ずる者の亡びずして、永遠の生命を得んためなり。」(大正改訳新約聖書)

英語

  • For God so loved the world, that he gave his only begotten Son, that whosoever believeth in him should not perish, but have everlasting life.  (King James Version)

  • For God so loved the world that he gave his one and only Son, that whoever believes in him shall not perish but have eternal life. (New International Version)

ロシア語

Ибо так возлюбил Бог мир, что отдал Сына Своего Единородного, дабы всякий, верующий в Него, не погиб, но имел жизнь вечную.

中国語

  • 神愛世人,甚至將他的獨生子賜給他們,叫一切信他的,不至滅亡,反得永生。(和合本)

古代教会スラヴ語

Та́кѡ бо возлюбѝ бг҃ъ мі́ръ, ѩ҆́кѡ и҆ сн҃а своего̀ є҆диноро́днаго да́лъ є҆́сть, да всѧ́къ вѣ́рѹѧй въ ѻ҆́нь не поги́бнетъ, но и҆́мать живо́тъ вѣ́чный.

古典ギリシア語(コイネー)

Οὕτως γὰρ ἠγάπησεν ὁ θεὸς τὸν κόσμον, ὥστε τὸν υἱὸν τὸν μονογενῆ ἔδωκεν, ἵνα πᾶς ὁ πιστεύων εἰς αὐτὸν μὴ ἀπόληται ἀλλ᾽ ἔχῃ ζωὴν αἰώνιον.

ラテン語

Sic enim Deus dilexit mundum, ut Filium suum unigenitum daret: ut omnis qui credit in eum, non pereat, sed habeat vitam æternam. (Vulgata)

参考文献


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