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全てが言葉であり文章

日曜日に家の掃除をしていたら、大学の入学式での学長の祝辞が出て来た。

「祝辞」と言っても
大学のホームページに公開されていたものをプリントアウトしただけのもの。

すっかり失くしてしまったとばかり思っていたが、どうやら大切にしまい込んでいたようだ。

今から12年前、慣れないスーツに身を包み、これから1人、自分の居場所を見つけられるか不安に思っていた私は、入学式での学長の祝辞を聞き、不安が一気に吹っ飛んだ。

ものすごくシビれて
「ああ、悩んだけれど、この大学にして良かった」
と思った。

当時の学長は医学部の教授だった。
医学部の教授だという紹介がパンフレットに書かれていたので、
自分の専門分野のことを話すんだろうな、くらいに思っていたが、そうではなかった。

まず学長は、大学で「学ぶ」ことの基本は「知的好奇心」だと言った。

次に「知的好奇心」に基づく学問への動機、「モチベーション」を大事にしてほしいとも言った。

「知的好奇心」と「モチベーション」それらにもう一つ付け加えるものがあると学長は続けた。

それは「日本語」だと言った。

私は、知的好奇心とモチベーションにもう一つ付け加えるべきことがあるのに気がつきました。
それは、意外に思われるかも知れませんが日本語です。
諸君は(略)さまざまな学科について教科書を読み、レポートを書き、試験を受けてきました。
その全てに共通している基本は何でしょうか。
私は母国語である日本語だと思います。

さらに学長は物理学者にして夏目漱石の弟子である、寺田寅彦の言葉を引用してこのように続けた。

「科学の基礎には広い意味における物の見方と考え方のいろいろな抽象的な典型が控えている。これは科学的対象以外の物に対しても適用され得るものであり、また実際にも使用されているものである。」
すなわち、科学は特殊なものではなく、その基本となっているのは、ごく一般的な「ものの見方と考え方なのです。
したがって、科学は常識的な言葉で説明できるはずであるというのが寺田寅彦の考えです。

「考え方によっては科学というものは結局言葉であり文章である。」
「何度繰り返し読んで見ても、何を言うつもりなのかほとんど分からないような論文中の一節があれば、それは実はやはり書いた人にもよく分かっていない。(略)これとは反対に、読んでおのずから胸のすくような箇所があれば、これはきっと著者の本当の骨髄に徹するように会得したことを何の苦もなく書き流したところなのである。」
(寺田寅彦、『科学と文学』1933年)

諸君が社会に出たとき、自分の仕事、たとえば医師であれば病気について、技術者であればその技術のもつ問題点を正確に相手に伝えられるようにならなければ一人前とは言えません。

当時の私は学長の「日本語を大切にしなさい」という言葉にシビれすぎて感動して泣きそうになったのだった。

医学部の教授が敢えて、いや、だからこそ、「日本語」の大切さをここまで説くことに大きな理由を感じた。

また、この祝辞を読み返して、

「今の自分は日本語を大切にできているだろうか?」

「自分の仕事について誰にとっても分かりやすく説明ができているだろうか?」

と考えた。

学長の言う「一人前」には到底及ばないと反省した。

社会人9年目の今、この祝辞に再会できたことがとても嬉しい。

あの時の衝撃と感動が蘇った。

脳が揺さぶられた。

「私、『一人前』になれたかは分からないけれど、『一人前』に向かって今も頑張っています。」

そんな風に学長に言える自分になりたい。

(タイトル写真は私が大学生の時にはなかった岐阜駅前の金の信長像です。)

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