「ダサい」との闘い
私が怖いもののひとつに「ダサい」がある。
「ダサい」は実態が曖昧であるうえに、移り変わりが激しいため、何が「ダサい」のか、常に気をつけていなければならない。
昨日イケてたものが今日ダサくなったりする。
今日ダサかったものが明日イケてたりもする。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」である。
つい最近までシャツをパンツにインすることはダサかったはずなのに、今は「脚長効果バツグン☆」というコピーとともにきれいなモデルさんが笑顔でシャツをパンツにインしてファッション雑誌に載っている。
また、「ダサい」は日常の細かいヒダの中に入り込むように潜んでいるから怖い。
歌人で作家の穂村弘さんはミスタードーナツで「Dポップ」を頼んだら女友達に「ダサい」と言われたらしい。
普段「Dポップ」のことを「ああ、ダサいなぁ」なんて思って見ていないけれど、大人の男の人が「Dポップ」を買っているのを想像すると、「ああ、なんか分かる」という気持ちになるから不思議だ。
潔くないというか、器が小さいというか、欲張りというか、「Dポップ」というチョイスひとつで、ちょっと良くないイメージが湧いてきてしまうから不思議だ。
さらに「ダサい」は世間一般に知られている「オフィシャルダサい」もあるが、「この人がやるとなんかダサい」という固有名詞みたいな「ダサい」もあるのが怖い。
例えばリフティング。
サッカー選手がやるとかっこいいけど、うちの年老いた父がやってるところを想像するとなんかダサい。
ヘアバンドはおしゃれ顔の今時の子が着けるととてもキュートだが、私が着けるとコレジャナイ感がハンパない。
「ダサい」のモノサシは人それぞれだから、自分の「普通」が他人にとっては「ダサい」だったりするのも怖い。
以前、合コンでフルネームで自己紹介したら、「下の名前だけでよくない?」とめちゃくちゃ笑われたことがあり、顔が赤くなって口の中が苦くなった。
「そうか、フルネームは、ダサいのか」
と後頭部をブン殴られた心地がした。
帰りの電車の中で
(フルネームは、ダサい。フルネームは、ダサい。)
と反すうしたが、下の名前だけで自己紹介すると、「イケてる人の真似をするダサい私」になりそうで、未だに下の名前だけの自己紹介ができない。
「イケてる側に行こうとする様がダサい」という種類の「ダサい」もあるのだ。
突然だが、実は今日、自分の中で5本の指に入るほど「ダサい」と思っていることを不本意ながらしてしまった。
3月31日という年度末の今日、髪を切ってしまったのだ。
本当は3月中旬に切りたかったのだが、今日しか空いてなかった。
年度末に髪を切るということは、「新年度は新しい私だよ!シャキーーーン!!」と書いた紙を背中に貼っているようで、私にとってはなんか、ダサい。
初デートの前日に髪を切るのと同じくらいなんだかダサい。
そのため、新年度から心の中で
(違うんです。3月31日しか空いてなかったんです。違うんです。)
と言い訳をしながら生きていかなければいけない。
「ダサい?はぁん?ちがうわ!アイデンティティじゃい!」
と開き直れる人になりたいけど、私はまだ「ダサい」が怖い。
「ダサい」を怖がる私は本当にダサいなあ。