選ばれなかったものたち。
私は「仕事で疲れた日にはスタバに寄っても良い」という自分ルールを定めている。
今日は疲れたのでスタバに寄った。
いつもの「カモミールティーラテ シロップ抜き」を頼んだ。
店員さんが手際よく私の注文したものをこしらえていく。
その時、別の店員さんが紙コップを指差しながらこしらえていた店員さんに耳打ちをした。
こしらえていた店員さんは、「あっ!」という顔をして、こしらえ中の私のカモミールティーラテを流しに空けた。
私は
(あっ・・・)
と思った。
たぶん、店員さんが流しに空けたカモミールティーにはシロップが入っていたんだと思う。
(私、疲れてるから、シロップ入っていても良かった・・・)
と思いながら胸がドキドキした。
店員さんの行動は、正しい。
圧倒的に正しい。
だけど、なんだかドキドキした。
「あっ!そのままでいいですよ!」
と咄嗟に言えなかった自分が悔しい。
廃棄された、甘い甘いカモミールティーラテと自分を重ねてしまう。
選ばれなかったカモミールティーラテ。
飲まれる前に排水口に消えていった優しいベージュ色の温かな液体。
何故こんなに哀しい?
選ばれなかった時の自分を、記憶のタンスの奥から引っ張り出して、コネコネして、増やして、それに包まれて、「選ばれなかった哀しみ」に浸る、「選ばれなかったものごっこ」を無意識のうちにしてしまうからだ。
ぽこぽこと増殖していく「選ばれなかった」の波に飲まれそうになりながら、
「いやいや、私だって選ばなかったこと、あったでしょう!」
「自分だけが可哀想だと思ってんじゃないよ!このバカチンが!」
「それにね!あんた選ばれなかったってね!選ばれる努力をしたのかよ!え?!」
と必死に這い出る。
何かを選ぶということは、同時に何かを選ばないということでもある。
そんなことは当たり前のことだ。
そんなことは誰にだってあることだ。
選ばれなかったことがそんなに哀しい?
いや、よくあることだ。
その「よくあること」が嫌なら努力すればいい。
選ばれる努力を怠っておいて甘えすぎだ。
排水口に消えた甘いカモミールティーラテは、もしかしたら自分から排水口に逃げたかもしれないし、「海水浴をしてみたい」とワクワクしながら川を泳いでいるかもしれない。
可哀想と思うことは簡単だ。
可哀想と思われたくないくせに、可哀想とすぐに思ってしまうのはなぜだろう。
選ばれなかったものの哀しみに浸ってしまう日もあるけど、なるべく早く戻って来られるようにしたい。
甘くないカモミールティーラテはいつも通り優しくて美味しかった。