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天理教の葬儀

出直しの教理

天理数では、一般に死と言われていることを出直しという言葉で表しているが、出直しには、最初から新しくやり直すという意味が含まれている。いわゆる死が、この世での生の終結を意味するのに対して、出直しは、この世で再び生命を得るために、新しく再出発するという意味をもつ。

人間は魂(心)と身体からなっているが、人間の身体は、親神からの貸しものであり、人間が親神から借りたもの、すなわち、「かしもの・かりもの」であり、人間は、「かしもの・かりもの」の身体を借りることによって、生命あるものとなる。出直しとは「かしもの・かりもの」の身体を親神に返すことで、古い着物を脱いで新しい着物に着がえるようなものと教えられている。このように、親神の守護によって、人間は、新しい身体を借りて、またこの世に出直して帰ってくる。ここに、この世における人間の無限の生を認めることができる  
「天理教辞典より抜粋」

完全天理教式葬儀

教えによれば、死とは出直しの事であり、古い着物を脱ぎ捨て、新しい着物に着替えるための通過地点である。古着を脱ぎ捨てた魂は親神様の懐に抱かれ、新しい着物を着て再びこの世に戻ってくる。そうであれば、教理に基づく葬儀は次のようなものになると思う。

祭壇:

 祭壇には霊璽やお社などは置かず、故人の写真だけを設置する。写真の周囲には生花や故人の遺品などを配置してすべてとする。
(※香典玉串料とは書かず、御花代と表記)

告別式

 祭主入場(教服)
 開式の辞

  ♪よろづよ八首斉唱(全員)
 出直しについての説教
  ♪おうた1番 やまさかや(全員)
 故人の略歴、エピソード
 思い出の映像(
ビデオ
  ♪航海(全員)
 お別れの言葉(代表数名
 献花(
スイートピー''赤’’ 
  ※「別れ」と「門出」を意味する花
  ♪おうた7番 心つくしたものだね(オーケストラ版)
  ♪よろづよ八首斉唱(全員)
 閉式の辞
 祭主退場

出棺

 BGMで♪親神様の守護(おやのまもり)を流す

神道式葬儀

天理教では人間の死は出直しと教えられる
亡骸は魂の古着であり、魂は新しい着物を着て、再びこの世に生まれ変わってくる
この死と再生の間隙において、魂は親神様の懐に抱かれる

そうであれば、天理教の葬儀とは
故人の魂を親神様の懐にお送りする為の儀式であり
また、親神様からお借りした古着を親神様へお返しする儀式でなければならない

また一方では、家族の一人が突然、側から消えてしまうという耐え難い感情
この簡単には癒す事の出来ない、すぐには癒える事のない深い悲しみ
それを徐々にではあるが、和らげる為のセレモニーという側面も持っている
遺族の悲しみの乗り越え作業…これも葬儀の重要な要素の一つである

霊璽という御霊が宿るとされる「御霊の依り代」
それがどうしても必要とされるのもその為なのであろう
遺族にとっては、決められた期間とはいえ、家の神棚に家族の一員として存在する「モノ」が必要なのである

つまり、葬儀とは
人間側からの避け難い要求によって執り行わなければならないもの

…でもある

天理教の葬儀を以上に如く考えるならば
みたまうつしから始まり、告別式、霊祭……
それぞれの儀式の意義がはっきりする筈である

遺族の悲しみの心に、精一杯の配慮をするのであれば、
葬儀は重服で、重々しく執り行うべきである
略式の如き考えもあるが、私は反対である

玉串奉献の廃止など、あってはならぬ
また玉串を「洗米」で代用してはならない

大麻行事も、教義の上からはその本来の意義を失ってはいるが
重要なセレモニーとして執り行うべきである

拍手も「しのび手」、あるいは微音にて行うのが分別である
教義を盾に、葬場に響き渡るような拍手をして平然としている人がいるが、厳粛な空気を破壊する蛮行であり、慎まなければならない
また。胸に華やかなブローチなどを付けて参列される女性もいるようだが、遠慮すべきであろう
どちらも一手一つに欠ける行為であり、遺族に対しての心配りが欠如していると言わざるを得ない

日本古来から現代に受け継がれてきた神葬祭
斎官が重服を纏い
大玉串を奉持
古文調の諄詞が読み上げられ
しのび手が葬儀の静寂を際立だせる
参列者の玉串がうず高く供えられ
祭壇には玉串の丘が…
荘厳な雅楽の調べの中で粛々と執り行われるその姿は平安絵巻そのもの

この大掛かりな葬儀showの中で

古着は恭しく親神様にお返しされ
魂は親神様の懐へと旅立ち
そして、遺族の悲しみの心が癒されていく
こうして、天理教の葬儀は完結する


脱・国家神道

「神道」とは日本の民族宗教であるとともに、日本文化の一つでもある。明治政府によって構築された「国家神道」とは一線を画しておかねばならない

国家神道は天皇一族はアマテラスの子孫であり、現人神であるとし、日本国統治を目的として明治政府によって創設された宗教である

五色絹

この五色絹には天皇を象徴する三種の神器(神鏡・剣・勾玉)を模した飾りが掛けられ、月次祭には、教会の神殿の左右に建てられた。教祖九十年祭に廃止となった。

これで形の上での脱・国家神道は終了かと思われたが、その後、注連縄と玉串が廃止となった。

そして今回、葬儀から祓い行事と玉串奉献が廃止となったわけである

神道と日本文化

脱・国家神道は復元の精神から言えば当然の事であり、年祭毎にこれを執り行ってきた事は極めて歓迎すべ事だったと思う。ただここで問題となるのは神道、すなわち日本の文化まで取り払う必要があるのか?という問題である。

古来、日本人は死者の亡骸を「ケガレ(穢れ)(気枯れ)」だと捉えた。死者は放置すれば腐敗し、悪臭を放ち、そして蛆虫がわく。そのケガレは、、すなわち火打ち石によって、また、すなわち塩水によって、さらに、すなわち祓いによって払い落とす。これが日本古来より執り行われてきたケガレに対する対処法だったと思う。世界一研ぎ澄まされた衛生感覚を持つと言われる日本人、その感性が生んだ稀有な文化である。これを神道式だとして排除することが果たして正しい判断なのであろうか?

岩に注連縄をまけば「磐座」となり、樹木に注連縄をまけば「御神木」となる。神を祭る場所には必ず注連縄を張る。これが日本式神祭りの文化なのであるが、神道の儀式の一つだとして排除しても良いのであろうか?

そうであれば御簾という神祭りの神具でさえも脱神道という名の下に別の物に取り換える必要があるのではないか?

おふでさきには「みす」「なわ」「やしろ」という言葉が登場する。天理教の祭儀を考える上で考慮に入れなければならない重要な要素だと私は思う

様々な疑問が山積する現行の天理教葬儀、日本全国、地域によって様々な因習が残存する中、それぞれの教会の会長さん方が地域に根差した葬儀と教理に基ずく葬儀の間で振り子のように揺れながら勤めておられるのが現状であろうと思う。そうであれば、いっそのこと、冒頭に記した「完全天理教式葬儀」にしてしまうか、中途半端な事をやめ「神道式葬儀」に徹するか、どうちらかにした方がスッキリするのではないかと私は思うのだが、いかがであろうか  (^^)

追記

葬儀はそれを執り行う地域と密着している。私の郷土では葬儀には霊璽を二つ用意する。一つには「霊」と書きひとつには「棺」と書く。棺の方は火葬場で亡骸とともに灰となる。これは多くの人が亡くなった時代、本人と他人とを識別するための手段として考案されたものであろうと思われ、それが伝統として残ったものと考えられる

私が会長駆け出しの頃の話だが、葬儀は出直しであり、悲しむべきものではないという教えの下に葬儀を執り行ったことがある。その結果であるが、遺族や遺族の親戚から非難の嵐が巻き起こり閉口した経験がある。その時、肝に銘じたことがある。葬儀は地域の因習どおりやらねばならん!という事であった

葬儀には天理教の信仰者だけが集まる訳ではない。むしろ未信者が絶対多数である。信者にとってよりも未信者にとってどうであるか、が重要なのである。しかも葬儀には遺族だけではなく、その親戚が、普段付き合いのない者までもがやってくる。様々な宗派の人々の集まりでもある。そんな中で執り行われる葬儀であれば、神葬祭という伝統的な祭儀の中に天理教の独自性を打ち出す事はほぼ不可能ではないか、というのが私の偽ざる感想である



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