筏のたとえ①
(本稿は文学フリマに出品するために執筆中のエッセイの一部です)
スピリチュアル——いわゆる引き寄せの法則——には、「私の人生に降りかかる全ての出来事は、私自身の無意識が引き寄せたものである」という考え方がある。
都合の悪い現状。それを望んだ覚えも引き寄せた覚えもない。けれどスピリチュアル的な言説にかかると「今のあなたの状況は、あなたの無意識が望んで引き寄せた結果なのだ」といった具合に、いくらでも「私のせい」にされてしまう。
この教えは、諸刃の剣である。
もちろん、スピリチュアルの教えに有益な面がある事を否定しようとは思わない。
例えば、自分にはどうしようもできない、たいへん重い病気にかかってしまったとする。
「これは私の無意識が呼び寄せたのだ。じゃあ今度は私の無意識に私自身から働きかけて、病が治るように出来事を選び直そう」
あるいは、
「この病気を受け入れ共存することで、私の人生を精神面で豊かにしよう」
こんな風に考えることで、精神的なダメージを軽減させることができる。
スピリチュアルはうまく扱いさえすれば、決して悪くない考え方だ。
私の場合、「某新宗教の二世信者」という立場で生まれてきたことと、なんとかうまく付き合っていかねばならならないと漠然と考えていた頃、二〇〇〇年代に流行したスピリチュアルの教えに触れることとなった。そこでは、「あなたの境遇は、あなたの魂が生前に決めたこと」なのだと説かれる。
初めてこの思想に触れたとき、怒りはさほど沸き起こらなかった。
「そうか。私がこの宗教の二世として生まれたのは、私自身の魂が生まれる前に選択したことだったのか」
と、素直に信じるようになった。
ただのラッキーだったと思う。私はこの言説のおかげで、自分の境遇を自分の責任であると捉えるようになった。
責任というとネガティブなイメージもつきまとうが、私はこの時、「誰かにどうにかしてもらうのを待つ必要はないんだ。自分でどうにかできる問題なんだ」と、人生のハンドルを握る準備ができた。
それまでどうしようもない運命だと思っていたのに、スピリチュアルのおかげで、認識が変化した。
——今の状況がしっくりこないなら、選び直せばよい。
「きっと私は、『この団体の二世として生まれた後に、その集団幻想から抜ける』というあらすじを生きようと、事前に決めて生まれてきたに違いない」
そう思うことで、その後の人生の道を、自らが望む方向へと迷いなく進むことができた。
そうは言うものの、今の私には、この考えもあまり合わなくなってきている。
よくよく考えてみると、過去にスピリチュアルに救われたことを以てして、それを真理だと言い続ける必要はどこにもない。
まさに、仏教で言うところの「筏のたとえ」である。
対岸に渡ってしまえば、筏の役目はもう終わっている。再び陸を歩くのに、重い筏を煩わしく思いながら運び続ける必要はない。
離教して、ある程度自分の人生に責任を持つ感覚を会得した今、このスピリチュアル的な考え——特に、生前に境遇を選んで生まれてきたという説——は、もう捨て去って良いと思っている。むやみやたらと強烈に否定する必要もないが、あんまり信じてはいない。
そもそも、「あなたの不利益はあなたの無意識の選択である」という考え方で「救われた」と思うのは、ひょっとすると稀なケースではないだろか。むしろ憤慨を覚える人の方が多そうな教えである。
世間一般常識に照らし合わせれば、出自というのは自分の責任で選べないので、本人には責任がないと考えるべきだ。
特に、不利な環境に生まれた人に対して、他人がこの考えを押し付けてはいけない。
「それはあなたの魂が生まれる前に選んだ課題だ」と言って突き放すのは、なんというか、とっても暴力的でよろしくない。
スピリチュアル思想は、自己責任論と相性が良い。それこそ「自己責任」で取り入れる分には有用だと思っている。私自身は過去にうまく使えた自負もある故に、スピリチュアルに傾倒した人が、他人におすすめしたくなる気持ちもわかる。しかし、全ての宗教の教えがそうであるように、万人が持つべき真理だとは思わない方がいい。少なくとも私はそう思っている。
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「話す」↔️「書く」を繰り返してネタが煮詰まっていく感じがします。
続くかわからないけど(1〜2ヶ月続けるとスッキリしちゃうんですよね。いいことなんですけど)細々続けていこうと思います。