いつかたこぶねになる日/小津夜景
インターネットに毒されている。
ので、素敵な作品やコンテンツに出会った時、それが如何に良かったか、どのように素晴らしかったか、言葉にしたくなる。
これは自分のアウトプットツールが言葉くらいしかないのもあるし、インターネットの性質上、感情の伝達(表現ではなく)には言葉を用いるのが比較的誠実であると勝手に思っているからというのもある。
非言語的な要素がメインとなっている対象の良さを語ることはある意味やりやすい。良さの部分をそのまま言葉に変換しようと努力すれば、それは概ね達成される。
ただ、そもそも語りたい対象が言語ないし、それを用いて紡がれた文章そのものであった時はどうすればいいのだろう。
とても良い本を読んだ。
素晴らしい文章表現に接した。
そう語ることに何か意味はあるのだろうか。
これらの言葉に嘘偽りはない。全く無いし、言葉にしようと思ったからには自分の感性を賭けてもあなたに読んで欲しいと思う。
でも、どう言葉にすればいいんだろうか。
つまりはここで紹介したい本の話なのだけれど、これは漢詩を軸に据えたエッセイ集だ。
だから例えばストーリーが良かったとか、登場人物が魅力的だったとか、そういう類の感想が生まれる文章ではない(エピソードに出てくる人々はとても魅力的に描かれているけれど)。
結果としてとにかく良い文章だった、素敵な日本語だった、という感想ばかりが浮かぶ。
美しいものを美しいとだけ言葉にしても、あんまり意味はない、と思ってしまう。だからどうしていいのかわからない(自分の書いた物にそう言ってもらえるのは嬉しいのにね)。
取り上げられるエピソードの切り取り方、そのものの魅力、描写の色彩感や手触り、感情の捉え方と表現、言葉そのものの文語感と親しみのバランスから来るの気持ちよさ……というような分解はできなくもない。
けれど分解することにあんまり意味はない、とも思う。それらの結集としての、最終的に刻まれている文章が本当に素敵で、読んでいて心地よく、描かれた対象に思いを馳せられると感じた、というのが自分の感想であるから。
並んでいる文字の連なり、書かれている言葉とそのリズム、それらが自分の頭の中で結ぶ像、文章としてのトータルバランス。
それらが読んだ時に自分の中でとても収まりがいい。言葉を読んで想像して、知っている感覚と結びつけて気持ちよく納得できる部分、未知だけれど想像して脳裏に浮かんだ何かが素敵だと思える部分。どれも「いいなぁ」と思えるし、その「いいなぁ」に結びつくまでのテンポがすごく良い。
読むことそのものがまず気持ちよく、その結果脳で結ばれる情報にも「あぁ、良いなぁ」と思える。そういう文章がぎっしり詰まっている。そういう読書体験だった。
ミクロな話もしておくと。
高校の頃、古典の教師と授業が大嫌いだった。当然のように漢詩もなにがなんだかわからんままに遠ざけていた。別に中国語なんて読めなくてもいいよ、みたいな。
でも、こうやって読ませてもらえてたら面白かっただろうなぁ。当時は読む気になれなかっただけ、だとも思いながら。
詩は詩なんだから、そしてこれだけ日本までもこんなに浸透している部分があるんだから、そこに良さはあったんだなと思う。当たり前でもあるけれど。
そういうわけで、この本の中で特に印象的だった詩をあえて抜き出してみると、藤原忠通の念入りな描写からフッとおしゃれに落としてくるところや、原采蘋/初夏幽荘の極楽っぷりなんかが特に印象に残っている。
素敵すぎる訳詩だけでなく、原詩の方にも目を通しながら読んだけれど、いやほんと、良い言葉たちだ。
どこまで行っても、この本について語ることにあんまり意味はない。
書かれている文章そのもの、そしてそれを読んだ人の頭で意味になった「何か」こそがこの本の価値であると思える。この本を読んだ自分の感覚と向き合うと、結局そこに行き着く。
だからぜひ読んでみて欲しい。という、これもまたそれだけではあんまり価値のない言葉しか吐けない。
でも、それでもやっぱり、ぜひ読んでみて欲しい本だと思う。
それはそれとして例えばどんな人におすすめなの、と聞かれたら
・日本語の文章そのものに良さを感じたことのある人
・言葉で描写された何かに良さを感じたことのある人
と答える……かなぁ。