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棟方とポロックと他力
今日ちょっとかたい文章です。
先日、石井頼子氏と鷺珠江氏の対談をお聞きする機会があった。両氏はそれぞれ民藝運動の担い手である棟方志功、河井寛次郎の孫。
お話のなかで棟方の画法「躅飛飛沫隈暈描法(ちょくひひまつわいうんびょうほう)」の話題が。大きな筆で荒々しく描くこの画法は、ダイナミックな表現を実現するとともに、おもいがけない墨のしぶきなども作中に組み込まれていく。
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作者自身から生み出され、その手で描くいわゆる「絵画」。にも関わらず、自身の意図から離れた「無意識」の表現領域を模索したのはジャクソン・ポロックだった。大きなキャンバスを床に置き、上から絵の具を垂らして散らしてのせていく「ドリッピング」という画法を用いたスタイルは、「アクションペインティング」と呼ばれ、無意識のなかから生まれた描写の軌跡が、作者の身体性を記録するものとして評価された。
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浄土真宗の教えに強い影響を受けた棟方。「他力」というのは浄土真宗の重要な概念だが、親鸞は「他力本願をたのみて自力をはなれたる」として、阿弥陀仏という「他力」に帰依することで、自分というものは自分の思い通りになるという「自力」をはなれるのだと説く。
棟方、そしてポロックは、自分自身を超えた領域を創作の技法に据えようとした。それは、その領域に見出される「他力」とも言えるような何かにアクセスしようという試みだったのかもしれない。ここに目指されたものは、芸術の、民藝の、最も肝要なことを示すものなのではないだろうか。
翻って自分の制作などを考えると「自力」としか言えないものだ。作り込んで作り込んで、ご依頼いた案件であれば企画に沿うように歩むべき道を歩んで整えていく。ただ自分の制作において「他力」にわずかでもふれられるとしたら、他者の存在が大事なのかもしれない。バンドやチームと共に制作するなかで目標共有していても、わずかな「ズレ」が起こる。自分の理屈のなかだけでくみ上げていく作品に、他人の意見が耳に入ることで起こる、ごくわずかな「ズレ」。また音楽なら、人前でライブをするという肉体を介した表現のなかでそうした「ズレ」が生み出される。こうした「ズレ」だけが、ひとりよがりの書きつけをひと時はからいから解放し、「芸術」の顔をさせてやることができるのだろう。
すんません急にめっちゃ書いて。忘れんようにと思って。日記日記。読んだらいいね押してや。