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『ハウルの動く城』を男性性と女性性で読み解く・3

ハウルがドロドロの液体を出して落ち込んだ後の話を書いていきます!今回は前回のように重くないですのでご安心を。笑 今回は「ハウルの変化」と「2人の助け合い」について書いてみます。

ソフィーはひとしきり外で泣いた後、ハウルをお風呂に連れて行きます。心配するマルクルに「大丈夫よ、癇癪を起こして死んだ人はいないわ」と、おばあちゃんらしい達観した返しをして、ドロドロのハウルに肩を貸します。

階段を上りながらハウルの腰に巻いていたタオルが床に落ちるのですが、あれにも実は意味があります。

「ハウルはソフィーに、弱い所も恥ずかしい所も全てさらけ出した」ということのメタファーです。一見なんかギャグっぽいんですけどね。笑

その後ベッドに横たわったハウルは「元々の黒髪に黒い瞳(※中央の色が違います)」のままの姿で、ソフィーに本当の自分について語ります。臆病であることや、荒地の魔女を恐れていること、寝室の飾りは全て魔女除けのまじないであること。ソフィーに心を開いて、自分の弱さを暴露するのです。

人間って誰しも完璧ではありませんよね。弱い所もあって当たり前。そして、その弱さを大切な人に知ってもらいたい。全て知って受け入れてもらいたいと思うものです。あのシーンは、ハウルにとってソフィーがそんな「大切な人」になったことを表しています。

このシーンの後、ハウルは2度と金髪青眼(中心まで薄いブルーアイ)には戻りません。ピンクの派手なジャケットを着ることもありません。大切な人が弱さを受け入れてくれたからこそ「そのままの自分」で生きていくことを、自分自身に許すことが出来たのです。

これまでハウルは、不特定多数の女の子から「凄い!カッコいい!好き!」と言われることで安心を得ていたと前回書きましたが、もうその必要は無くなったのです。弱さも含めた等身大の自分を「たった1人」が受け入れてくれるだけで、心が満たされることに気付いたからです。

ハウルの女性性は「そのままの自分で愛されること」を望んでいました。金髪青眼、天才イケメン魔法使い、スター級のカリスマ性。それらは「愛されるために必要だと男性性が思い込んでいたこと」。ソフィーと出逢い、その思い込みを捨てる事ができたハウルは、本当の自分を取り戻していくのです。

そして、この寝室のシーンで、ハウルはとんでもないことを言い出します。戦争のために王室付き魔法使いのサリマン先生のところに呼び出されたのですが、ソフィーがお母さん役として行って断ってきてくれと頼むのです。

宮崎駿作品の中でよく描写されることの1つに「男が女を助ける」シーンと「女が男を助ける」シーンの両方が描かれる、というのがあります。

魔女の宅急便では

・引越してきたキキをトンボが気遣う
・エンディングでキキの店の看板をトンボが付けている

・キキが飛行船にぶら下がったトンボを助ける
・エンディングでキキが人力飛行機を魔法で吊り上げている

耳をすませばでは

・聖司が夢を追いかける姿に影響され、雫が自分の夢を見つける

・雫が「私だって聖司くんの役に立ちたいの!お荷物はイヤ」と言って、二人乗り自転車の後ろから降りて押す

千と千尋の神隠しでは

・迷い込んできた千尋をハクが助ける
・過去にハクが川で千尋の命を救った

・瀕死のハクを千尋が助ける
・ハクのために帰り道のない電車に乗って湯婆婆の妹の所に行く

などなど。

男が女を守り、女は男に守られる、というだけが男女の関係性ではない。男と女ってのは相互に助け合って生きていくもので、それが時に不器用で面白くもあり、最高に美しいんじゃないか。そんなメッセージにも私は感じます。

女、あるいは女性性の中には「男(男性性)の役に立ちたい」という願いが必ずあります。同時に、男や男性性の中にも「女(女性性)に頼りたい」という願いがあります。

一時流行った「愛され女子」何とかみたいなのも分かりますが、それだけではないよね。女だっていつも受け身がいいとは思ってない。当然、男だって女に頼りたいし、いつだって男なんだからリードしろ奢れみたいなのは理不尽だよねと。笑

それはやはり、男だろうと女だろうと、1人の人間の中には男性性も女性性も存在するからで、互いが互いを頼り合うというのが人間の生き方なんだなと思います。

宮崎作品の何が凄いって、そういう人間の真理みたいなものをサラッと背景のように織り込んであるところ。いやー、本当なんという天才なんでしょうかね、駿先生は。

話を戻しましょう。
ハウルがソフィーに頼る、という所ですね。

人に頼る、というのは「自分の女性性が、相手の男性性に頼る」ということです。つまり、人は心を開けない相手には頼れない。ハウルがソフィーに心を開いている証拠ですね。

そして、ソフィーは渋々(のようで内心頼られたことが嬉しく)出かけるのです。ソフィーの男性性がしっかり仕事をしています。

サリマン先生にソフィーの正体がバレた頃、変装したハウルが乗り込んできます。この後のシーンでは「ハウルが来るなら私が来ること無かったのよ!」と怒るソフィーに、ハウルは「ソフィーがいると思ったから来られたんだよ」と答えています。

ソフィーを頼っておいて、結局自分が助けに行く、というね。これ面白いですよね。彼女を頼りたいんだけど、彼女のヒーローにもなりたいんです。この矛盾した男心よ。うーん、人間らしくていい!可愛くて好きですこういうの。笑

そんなこんなで、サリマン先生との戦闘シーンは「2人の助け合い」が続きます。

・下を見ないでとハウルがソフィーを守る指示
・ハウルが魔法にかけられソフィーが目を覆って助ける
・ハウルがリードして飛行機で脱出
・皆を連れて帰る運転をソフィーに任せる

ね。すごくテンポよくお互いを助け合っているんです。

初めて見た時はこれ、「ハウルの強いヒーローとしての見せ場なんじゃないの?なんか呆気なくやられてるし何なの?」って思ってたんですが、描きたかったのは「2人の助け合い」だったんですね。ハウルも「さっきは本当に危なかったんだ」とソフィーのおかげで助かった事を名言しています。はー、なるほど。深いですね。

こんな助け合いをする中で、2人はお互いを強く信頼し合うようになっていきます。どちらかがいつもリードして助ける役、というのではなく、必要な時にサッと助け合える主体性と受容性がどちらにもあるように見えます。

この時点ではソフィーもハウルも、最初の頃とは別人のように「自分らしく」なっていますよね。のびのびと生き始めたというか、キャラ変わったなぁ、と。初めて出会ったシーンを思い出すと2人とも堅かったなぁ、って感じがしませんか?

そんなハウルの「自分らしさ(等身大の自己)」は、ソフィーによって顕現しました。同時にソフィーのそれもハウルによって初めてこの世に現れる。ちょっとスピリチュアルっぽい話に聞こえるかもしれませんが、「誰かに観測されることで初めて存在する」ものってあります。

例えば、ある人の「夫」という側面は「奥さん」という存在があって初めて成立しますよね。それと同じように、「本当の自分」も「それを観測する誰か」によって初めて成立するのです。

つまり「自分らしさは、それを受け入れてくれる相手がいて初めて確定する」ということ。必ずしもパートナーでなくても誰かがそれを知っている、ということでいいんですが、「本当の私は〇〇である」と本人が思っているだけではなくて、それを出せる相手が必要なんだよってことです。

だから「自分らしく生きよう」という事は「自分らしくいられる相手と生きよう」という事。「自分がイイと思うキャラを演じる」事ではなかったし、カリスマ魔法使いとか90歳の掃除婦とかいう事でもなかった。

大切なことは、自分らしく生きるという事の本質がどこにあるのか?という事かな、と。現代では仕事を通じて自己実現していくことがイコール「自分らしく生きる」のミームになっている部分てあるけど、それは「自分の能力や個性を最大限活かして働く」であって、本来の意味での自分らしく生きるって私は上記のような事だと思うわけです。

その最小単位ってどこにあるのか?って言ったらきっとパートナーシップだし、家族だし、その土台の上に「自分を活かせる仕事」があれば人間幸せなんじゃないかなぁ、なんて思ったりします。だいぶ話が逸れましたね。笑 でも、ハウルを観て私が一番思うことは「家族っていいよね」ってことです。血縁だけじゃなく、ああいう「自分らしくいられるから、好きだから、一緒にいる」という家族ってとても憧れですね。

しかしハウルの動く城、まぁよく制作したよねこれ。実験的すぎるわ。笑 おかげで考えさせられる部分がいっぱいあってスルメなんですけどね。

そんなわけで今回はここまで。お読みいただきありがとうございました!

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