『ハウルの動く城』を男性性と女性性で読み解く・1
先日Facebookに、ジブリ作品の中で「ハウルの動く城」が1番好きだと書いたところ、あれはハウルかっこいい!の声が大き過ぎて考察する気にならない、というご意見を頂きました。笑 それたしかに分かる。私の場合、ハウルの動く城が好き、というと「ハウル推しの人」だと思われる。いやそうじゃないのよ、作品として好きなのよ。そも私は二次元のキャラに惚れるという心理がわからん人なので、話がそっちに行っても困っちゃったりします…
ということで、せっかくなので「ハウルの動く城」の私なりの考察をちょっと書いてみようと思います。あくまで私の超個人的な見方になりますが、ネタバレ含むのでその点はご注意下さいね。
ハウルを「女性の男性性と、男性の女性性の成熟を描いた話」として観ると面白いと書きました。つまり「主人公ソフィーの男性性、相手役ハウルの女性性」に注目するということなのですが、今回は、序盤に描かれるソフィー側の変化について書きます。
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ソフィーは帽子屋の長女で、物語の序盤では主体性が無く、アイデンティティーの据わりの悪い女性として描かれます。「親や周りに流されてばかりで、自分が本当はどう生きたいのかハッキリしない」ことを、妹にも心配されています。
そして、魔法使いのハウルに偶然出会い恋をしますが、ハウルに執着している荒地の魔女に見つかり、魔法で90歳のおばあさんにされてしまいます。
翌朝ソフィーはひっそりと店を出るのですが、まずここがポイント。「もうここには居られないわね」の一言で出ていくのですが、これ(観た方は)どういう事か分かりますか?
あまりにもサラッと描かれているので「こんな姿を見せて、周りのみんなを心配させてはいけない」という意味に受け取ってしまいがちなのですが、実は違います。
みんなに心配をかけたくないなら、夜のうちにさっさと出て行けば良かったはず(魔法をかけられたのは夜なんですから)。では、なぜ明るくなるまで部屋にいたのか?それは、ソフィーが一晩寝ずに考えていたからです。考えて考えて、やっと覚悟が出来た。そのことを表すための時間経過なのです。
ソフィーは何を考えていたのか?それは「死」そして「自分はどう生きたいのか」です。90歳のおばあさんになって、ソフィーは初めて死を意識したのです。「私、もうすぐ死んじゃうのかしら?明日?明後日?1年後?どう長くてもあと10年は生きられなさそうね…」てな感じで。
そして初めて「自分は残りの人生をどう生きたいのか?」を真剣に考えた。妹に「お姉ちゃんはどうしたいの?自分で決めなきゃダメよ!」と叱咤されるシーン、実はこのことを示唆する伏線だったんですね。
そこで、ソフィーが出した結論は「好きな人の側で、好きな人の役に立って生きよう(死のう)」という事。自分の心からの望みというものを、初めて自覚したのです。
一夜にして、ソフィーは別人のように行動的になります。部屋を出る時にポツリと言い残した「もうここにはいられないわね」の本当の意味。それは「私はもうこのお仕着せられた人生とおさらばして、自分のために生きると決めた。だからもうここにはいられないのよ」という覚悟の言葉なのです。
ソフィーはパンとチーズをスカーフに包み、通りすがりの藁を積んだ馬車の端っこに乗せてもらい、その先は危険だと言われても固い意志でずんずん荒地を進んで行きます。
どこへ?末の妹のところへ?いいえ、違います。「昨日ハウルの城が通った辺りへ」です。台詞通りに末の妹が本当にいるかどうかはわかりませんが、もし居たとしても真の目的はそこに身を隠すことではありません。ハウルを待ち伏せするためです。好きな人に偶然会える可能性に賭けて、ソフィーばあさんはすっ飛んで行っちゃったんですね。あらー…笑
そして、ついにハウルの城に潜入するのですが、ここでの台詞がもうね、とてもとても印象的なのです。「私はここの新しい掃除婦さ」「(ハウル)掃除婦って、誰が決めたの?」「そりゃあ、私さ!」です。「私が決めて、ここに来た。私の生き方は私が決める」という強い意志を表した台詞です。ここまでの展開で既に、あの帽子屋の長女ソフィーだとは、もはや見た目でも性格でも全く分からなくなっています(ここら辺がハウルよく分からんと言われる所以でもあると思う)。
たぶん多くの人が、この「ソフィーの性格の変化」をスルーしてしまうと思います。90歳のおばあちゃんになる、という見た目の変化のほうがインパクトがあるからです。気付いてもせいぜい「おばあちゃんになったから怖い物が無くなって図々しくなったんだろう」位にしか思わないはず。
でも、そこは駿先生。わざわざ貴重な尺を取って、妹に叱られるくだりとか、店の子たちに「ハウルの城があんな所まで来ているわ」と噂させるとか、「掃除婦って、誰が決めたの?」なんて問いを入れるとか、気付け気付けとばかりに伏線を仕込んでいるのです。
ともかく、周りの顔色を伺って「いい子」をやってきた自分軸の無い女性が、死を意識した事で、自分の人生に初めて真剣になった。そして、自分自身(の女性性)の望みを叶えるために行動を起こした。つまり「ソフィーの男性性が成長の第一歩を踏み出したぞ!」というのが冒頭からここまでのシーンで描かれています。(長っ
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未熟な男性性は、内なる女性性の声を聞けません。あれが正しい、これは間違いだと頭だけで判断して実行しようとし、自分の直感や愛の感覚を信じようとも、心からの望みを叶えようともしません。自分が何を好きで、何がしたいのかもわからない。あるいは、自分を信じられないから、望み通りに生きる勇気が出ない。いずれにせよ、男性性が未熟だと、自分自身のために生きるということが出来ないのです。
(※男性性・女性性とは、1人の人間の中に存在する概念的な人格のことで、男の人・女の人という意味ではありません)
ソフィーは一晩で、この難題をクリアしたということになります。まぁさすがにこんな状況なら、人間そうなるのかもね。ソフィーの男性性は「ハウルの事が好きで、側に居たい。そして、彼の役に立ちたい」という女性性の願いを聞きました。そして、頭でっかちな男性性が義務感だけで守ってきた帽子屋をついに投げ出して、女性性の願いを叶える事を最優先にし、心の導くままに旅に出た、というわけです。ビバ男性性。やるじゃん、ソフィー。
まぁソフィーのように好きな人の所へ強引に押しかけて行ったり、通りがかるのを待ち伏せする事の是非については敢えて言いません。一歩間違えればただのストーカーじゃん、ていうね笑 でも誰しも一度は、こんな風に想いのままに好きな人の所へ行けたらと思った事があるんじゃないでしょうか?そこら辺はさすが駿先生、大衆の心もしっかり掴んでます。
みなさんはこの考察、どう思いましたか?よかったらコメントお待ちしてます。
※画像はスタジオジブリが公式に配布している物を使用しています。