産まれる場所は選べない⑧【非行パターンだった私】

我が家は、暴力はなかったものの今でいう"ネグレクト"だったと思う。私が期待しなくなったその日は、幼なじみの家にパチンコ帰りの母が迎えにきて一緒に帰った。夜中0時すぎぐらいだったか、帰るなり母や兄達はローソクの火を灯しコンビニ弁当を食べながらいつもの反省会をやっていた。

私はどうしても渡さないといけなかった学校のプリントを持って母達がいる部屋に行く。狭いアパートだ。部屋には三人のタバコの煙が充満している。プリントを差し出すと母は面倒くさそうになにかと聞いてきた。そしてプリントに目さえも通さずこう答えた。「いつも言ってるでしょ。仕事で行けないから先生に断っといて」そして兄達とまたパチンコの話をはじめた。

母が学校へ来ないのはその時始まった事ではなかった。行事ごとはもちろん、お弁当すら幼なじみのお母さんが作ってくれていたし、運動会だってパチンコに行くし、私が高熱を出していても枕元に桃缶とポカリを置いて出ていく。誕生日すらパチンコ。誕生日ケーキがあったのは父が生きていた時までだった。そうそう、父と言えば年末年始は父のお墓参りに九州へ行くのだけど、車の中で目が覚めるとパチンコ屋の駐車場なんて当たり前だった。時代が時代ならちょっとした騒ぎだよね。

母は「パチンコ台に座って死ねるなら本望だ」と言っていたぐらい狂っていた。

その時だったかな。ローソクの火をみながら思ったの。

ねぇねぇ、なんで家は電気がつかないことがあるの?水道とまってるよ?火つかないよ?なんでコンビニ弁当すら食べれない日があるの?

プツン。と、私の中でなにかが切れた。

もう無理。もうやめた。こいつの顔色なんて伺いたくもない。こいつは親なんかじゃない。

その日から、私は母になにも話さなくなった。泣くことも笑うこともなくなった。

その代わり学校や外で問題を起こす事が増えた。我ながらわかりやすい子だ(苦笑)

毒親でなくとも、こどもの事で悩まれる方は、掘り下げていくとご自身がどこかで躓き悩まれてることが多いです。根っこはそこなんですね。こどもがなにか問題をおこす時はかならず何か理由があります。親自身が気持ちを整えていくことで随分と変わってきます。親の安定はこどもの心の安定でもあるのです☘

毒親育ちのこどもが陥りやすいパターンがいくつかあります。全ての方に当てはまる訳ではないですが、自分を押し殺し従いつづけるか、または反発し非行にはしるか、引きこもるかなど。また、人格障害を引き起したり発達障害に似た症状がでたり、なにかしらこどもに『生きづらさ』を植え付けてしまいます。

私は親子関係は修復出来ると考えていますが、無理な場合もあると思っています。お互いが歩み寄る姿勢じゃないと難しいのです。無理な場合は距離をとること。親の影響や毒親の呪縛はそれだけ強力だということです。

親子関係の溝が深ければ深いほど『許す』『許さない』ではなく『許せない自分を許す』ことがまず最初の一歩であり、そこを乗り越えれたらそれだけでも随分と楽になれます。


私はというと非行パターンでした。好き勝手したい放題の思春期。中学生になってからは、通知表は毎回ななめ線。その中でも母は私と向き合おうとはしなかった。家に帰らなくても探しはしないし、たまにしか顔を合わすことがなかったけれど、ピアスを開けていても気づかない。髪を真っ赤にしていても服のフードをかぶっていたら気づかない。いや、気づかないフリをしていたのかも。むしろタバコや酒に関しては寛容で全く小言を言われたことがなかった。

この頃にはもう自分の家の問題なんてどうでもよくて、母とはたまに顔を合わせるぐらい。そのおかげかたまに会話はあったが、大人が信用できずに相変わらず母のことは大嫌いだった。口癖は「どうせ」「でも」「だって」。だけど友人に言われる「葉月の家はいいよね~。好き勝手出来るし」の言葉はやっぱりちょっと悲しく感じていたように思う。

小学生の頃、寒い冬の日に一緒に幼なじみの家に帰ったら、部屋が暖かくて「おかえり」なんて優しい声が聞こえて羨ましかったなーって思い出すから。そんな事を言われる日はとくに家には帰りたくなくなる。結局、この頃も母のギャンブル依存はまだ治っていなかったのだ。

だけど今は「愛情を知らない人であり、親というものがわからなかったんだろうな」と思う。母もまた寂しい人生を歩んでいたのだから。

つづく

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