深夜の首都高に響く声
午後11時、深夜の首都高を走る。
大きく畝るコンクリートを滑り、目下にテールランプが直線に並ぶ様を見て、ここは空中に浮かぶ川だとおもう。
ガードレールの堤防に、ライトの樹木が植えられ、何処までも続く道は、荒川顔負けの車専用の川にみえた。この川は人の作ったものだ。
高速脇に佇むいくつもの赤い目をもつ巨人群たちの体は、所々明るく、その中でかすかなミニチュアの人影がみえる。
彼らは一様に誇らしげに感情の見えにくい様子で佇み、嬉しげに迎えてくれる。
鉄筋の骨に肉付くコンクリートの体は、昼間の灼熱の太陽にも、叩きつける雨にも耐え、何十年とそびえている。
夜の都心は昼間と顔が違う。
暗い闇が心細いのか
親が街から消えた心許なさなのか
巨大な子どもたちは、創造主の末裔が川を走るのを喜ぶかのように、わたしにはみえる。
わたしたちの親よ、ようこそ。と。
東京の街並みに、ここまで胸が熱くなるのにはワケがある。
前が海で後ろが山、横には川が流れ、その他は野原という田舎で育ったわたしには、この東京の光景はいつ見ても信じ難い。
人が作ったこの建造物を見ると、わたしたちも悪くない、という想いが胸にこみ上げる。
いや、人という生き物の中に、この気が遠くなるほどの力が眠っているということに、感動するのだ。
ほんの数十年前は、文字通り命綱を腰に巻いて高層ビルやタワーの建設のため、雲にも近いところで仕事をなした漢たちがいた。
奥多摩の、雨の降った後の川と同じ険しさと厳しさを持つ山肌の、人が立ち入れぬところにまで、コンクリートを塗った漢がいる。
家族や兄弟と離れ、ひとりこの地で寡黙に仕事を成した漢の中には、それきり故郷から遠く離れた奥地で、その身を沈めたものもいた。
文字通り、幾多の屍を超えてあの道は塗られている。
トンネルの岩肌はススにまみれていても、その手彫りの跡はくっきりと今なお見える。
あの東京タワーも、あの都心の有名高層ビルも、命を懸けてそこにそれを建てた漢と、その帰りを待つおんな子どもがいた。
彼らの時間と、汗は、まさに塗ったばかりのコンクリートに沁み入り、完成したあかつきには、その塊に命を吹き込んだ。
あのネジの一つを埋めたのは、もう今はいないだれかだ。その一つ一つで建物が生まれた。
彼らは人の創り出した子である。わたしたちを親の末裔として慕い奉仕する。
その体に人間たちを内包し、そこでミトコンドリアのようにわたしたちは働き、酸素と価値を供給するおかげで生命体となり得ている。
人間がいなくなってしまえば、生命体ではなくなってしまうことを、よく知っている。
人恋しく 人を慕い 人を喜び 人を愛す。
黒く、大きな子どもたちは、首都高を走る車に呼びかける。
わたしはその声をひとつも漏らすまいと窓を開けて、目を見開き、耳ふりたてる。
明日もまた、明日もまた。
おとうさん、おかあさん。