人の目が気になるのは、謙虚とは違う。
「人の目が気になるんです。」
というまとめになった話を、たまたま聞いた。
その人は奇しくも、うちの子どもと同じ幼稚園に通い、同じテストを受けて、同じような結果を貰った。
離婚するほどではないが、子どもの特性に無理解な夫から離れたい、こんなにも1人で抱えていることを、わかってほしいと涙した。もっと言えばご主人は鬱の経験があり、今の彼女は鬱状態に近いと判断した。そんな状態の話を聞いて、全てを判断できないと、話し合いを拒否されるのだそうだ。
その涙をわたしは貰った。これは泣かせて貰ったな、と思いながら。
グレーな世界で生きる親子は、世間という大きな壁の外に追いやられてしまう。こんなに情報サイトが乱立している時代にも関わらず。あの啓発記事の一言も、幼稚園の隅までは届かないようだ。一粒の砂のように、砂場に埋もれてしまうのだろうか。初めから、それらの言葉は他人事として、スマホの中で埋もれてしまうのだろうか。
人の家のことなんて、わからない。そんな当たり前のことを知らない人は多い。それはまるで飲食店の厨房で働くひとの手元がお客に見えないことと似てる。少しだけ見える窓から、制服姿だけを見て、お客は味に安心する。それが味わいを深める。ただ味を味としてだけ楽しむ人が、どれだけいるのだろう。
幸せな勘違いをそのままにしておけばいいのに、傲慢にも厨房へ調理の仕方を指示したり文句をつけるようなやり方で、人の子どもの特性を殺すような真似をされたのだという。
あなたの叱り方じゃだめよ。
それじゃただ甘やかしているのよ。
そう言って、子どもを遠くに連れていき、威圧的に叱られた。あなたは来るなと言われ、近寄れなかったと、泣いて話すのを聞いた。
子どもは怒られ方が怖くて、話の内容はわからなかったと、後々話したのだそうだ。
泣くなと言われても涙が出ちゃうし。
涙を止めたいのに怖くて止められないの。
怖くてどうしても泣いちゃう。
どうしたらいいかわからない。
その子どもを叱ったママ友は自分の子育てに自信満々で、子どもに言う事を聞かせるのがうまいと自負しているのだそうだ。 それで、ついその時は、任せてしまったそうだ。
よくもまあ人に対して、確証のない自信を元に、その人の中身を見もしないで、正しさをぶつけられるものだなと、憤慨した。そのルールはあなたが勝手に作ったものじゃないの?
遠くの少し自信過剰な変人が起こした出来事だと思うだろうか。ただこんな人が多いのも事実だ。この幼稚園に限った話ではない。
人の家のことなんて他人はわからない。
もっと言えば、その人の中身のことなんて、家族でもない限りわからない。よっぽど人を見抜く経験のある人にしか、グレーな子どもへの効果的な対処療法なんて、編み出せないと思っている。ひとくくりにグレーと言っても、一人一人あまりにも違う。独立王国がいくつも乱立する淡い世界。
どれだけ見てきたのか。
どれだけ、試してみたのか。
真剣に、一緒に、一喜一憂したのか。
自問自答したことのない人の自信は、ただの思い込みだったりするではないか。
なのに簡単に、みな、判断を人に委ねてしまう。
自分自身すら誤魔化せてしまう。謙虚とは違う。それは、その方が楽だからだ。
わたしもそうだった。支援センターでいいツールを教われるのだと思い込んで通ったけど、結局、この子らしさのなにを伸ばしたらいいのか、どう伸ばすのかは、家の中の人しか編み出せないという答えをもらった。
学校には人手が足りない。
支援センターでは一般論が横行している。
原因を探すのが目的ではない。学校に行くだけがゴールのような、短期的な視点で見てはいない。
親は、この子が社会で生きる可能性を探している。そう結論を一度出してみると、学校が問題視することのほとんどがどうでもいいことだったりもした。
できないことを取り沙汰すことの、本人への影響は良いものばかりではない。それは突きつけることでもある。
ほら、こんなにも出来ない。
積み重なれば、自己不信にもなる。
自分を嫌いにもなる。
人と比べて、劣る部分を憎むようにもなる。
誰かのせいにしたくもなる。
そんな影響も与える可能性さえあるのに、それを緩和する方法を出さずに、潰すものだけを与えられることに、ウンザリしたのだ。
みんなでよってたかって、人の目ばかりを気にする大人に、するつもり?
なぜそのママ友を止めなかったのかと聞くと、冒頭の答えが返ってきた。
人の目が気になってしまって。自分でも、そのやり方では、うちの子は叱られた意味さえ理解できないと思っていたけど。人のやり方もいいのかなと思ってしまって。
誰しも、そう思うときがあるんだとおもった。
グレーな世界にはタグがない。この世界はタグだらけなのに。タグを見て生きていける世界なのに。なのにここにだけ、タグがない。自分で道を見出さなければならない、けもの道みたいなところだ。
この道に押し込まれた途端に、マジョリティが見えてくる。大きな世間的に普通と言われる世界に、どうしたって馴染めない、活路を見出せない、なのに目を離せなくなる。自分だけ小さな世界に押しやられたような気がする。
気をつけなくてはならないのは、わかったふりをして近づいて、けもの道に道を通そうとする人。
その道を歩けないから困ってるんです。
そんな困惑さえ、笑顔で懐柔しようとする人がいる。味方なのか、敵なのか、わからない風の装いがタチが悪い。自身の成功談を持ち出して、万能薬のように振るまう。
よく目を凝らしてグレーを眺めると、たまに疲れたりもする。同じことを何度も繰り返す。子育てが二十歳で終わるなんて気はしてない。だから休憩が必要なのだ。休み方を知らないと潰れてしまう。それを子どもは見ている。
この世界の楽しみ方は、見方を変えればいくつもあるのだ。他人に答えを貰う世界から、飛び立ってしまった。思う存分、世間の枠も、自分の枠も無視できるのか。羽を広げる覚悟を、まさか家の外の他人が、知る由もない。
世界を狭めて子どもと、隠れて生きる?
皆に頭を下げて回り媚びへつらう姿を、子どもは見ている。学んでしまう。その一触即発の、鋭利なアンテナを前に、自分がどう生きるかを見られている。こんなにも自分の内側にベクトルを向けて生きろと、突きつけられている。
わたしたちはもっと自負していいんじゃないかと、話して思った。
このグレーの世界を共に生きる覚悟を、体の奥底のどこかでずっとしている。見て知って感じてきた。感情と時間を、どれだけ費やしただろう。体で知ったこれらを、軽視する理由がどこにあるというのだろうか。やってきた。子どもをよく見てきた。誰よりも近くで。これからもそうなのだ。だって家族なのだから。
この覚悟と経験値を奪う以上の、いいものって、本当にこの世界にあるんだろうか。それは、他人がくれるものなのだろうか。 自ら作り出すということが、本当に苦しいだけなのだろうか。本当にこの世界が、あっさり解決策を出してくれるほど、そんなにも高度で素晴らしいものだろうか。
答えを、このけもの道を歩きながら、拾っているのだ。何を拾うのかさえ選べる世界に、コンパスはない。方位は、自分自身で決めるのだから。