突飛な小3男子なだけです
noteを作るまで、あまり本当のことは書けない、と心の中で何度も何度もブレーキを踏んでは
文字を書いていた。
そうして出来上がった文章は
気持ち悪くて何がなんだかわからなかった。
わたしそんなこと考えてたんじゃない。
そんな思いするならどこかに出す意味なんてないと
スマホのメモにもパソコンにも
眠った言葉が保管されている。
ようやく、溜まった二酸化炭素を吐き出せる場所が
見つかりうれしい。
note以外で、いくつか公開した文に対して、
いいね!やコメントを貰っては驚いていたのだけど
中には、これは好きじゃないという意思表示も
あって、さらに驚いたことがある。
なんだなんだ、それは。
そもそもが、お褒めの言葉やいいねを貰うことも
驚いている。
外の世界とわたしの中身は
こんなにも断絶しているのかと
驚き、すり合わせている感覚になることがうれしい。
そこで、これは好きじゃない。の意思表示である。
どうしたどうした、それって。
なんというか、わたしは何を書いても
わたしにあるものしか出せないのだ。
書くだけじゃない。
話すこと、身振り手振り、喜怒哀楽
すべてが自分の中にあるものだけしか
外に出すことはない。
それまで蓄積したすべてが、笑い方1つにも
良くも悪くも出てしまう。
おもしろいポイントや
人を好きになるポイントがズレてるのは
もういい加減自覚はしてきた。
昔から、それは指摘され怒られたり喜ばれたり
0か100かみたいな反応されることが多くて
わたしなんなんだ、と落ち込むことも多かった。
が、ここまで生きてくると
致し方ない という感覚になる。
打つ手がなくここまできた。
30年以上生きててコレなのだ。
もはや肉の成長期も終わり
成熟とは無縁の突飛な小3男子が
書いたり話したりしてるだけなのだ。
で、その、好きじゃ〜〜の発言を受けて
**あーこの人の中にあるものしか
この人は好きじゃないのだな **という
当たり前のことに気がついたんだった。
みんな自分の、好き、があって
好き、の石に飛び乗っては
次の石を見つけては 飛びつく。
こちらのダムは
貯水量がたまるまで待ってはくれない。
出したい時が放水時期。
逃すと溺れるから必死なだけだ。
アプアプしながら、二酸化炭素を吐いている。
ふと周りを見ると
同じように溺れそうになりながら
言葉を手離す仲間がいたことを最近知った。
場所を変えたら見方が変わるというのは
こういうことだったのか。
しみじみとうれしい。