3.物語の力
アサミとセンパイと、何人かで遊んだ、ある日の朝。
寝息が聞こえて目を覚ますと、目の前にアサミの顔があった。化粧の下の白い肌がやわらかそうで、りんごの一番おいしいところを切り取ったような紅い唇の奥には、白い歯が小さく子どもの様に顔を出していた。
さっきまでいたはずの男たちは姿が見えない。わたしはうすら寒くなり、人形のように可愛いアサミにくっついて寝ようとして、はっとした。
いまなら、言える。
「アサミ、キスしたい」
もしそれが、何かの力を使ったのだとしたら その
供給元は何だったのだろう。
あのとき何かが目覚めた気になった。今でなければ
もう言えない。たぶん、この頃のアサミの酔いっぷりに言いようのない焦りを覚えていた。酔っているのにどこか冷めている。隣にいるはずなのに、行先のわからない紙飛行機を眺めているような、心もとなさ。
なににも酔えないのに 酔ったふりをしていて
そのくせ、シラフのときほど酔っているみたいな。
「るんばとなら、いいかも。…でも、でもね」
それは目が覚めたのに夢のような言葉だった。境目のわからない声を遮って、わたしは畳みかけた。
いまでなければ。
たぶん朝なのか昼なのかわからない日差しに惑った。居るはずの人たちが消えた2人きりの この部屋は
とても静かすぎて怖い。それに、アサミがいつもよりかわいい。わたしの言葉が何かを埋められる気がした。なにかを期待していたし、こんなきれいな子を今すぐ抱きしめられるなら、もうどうにでもなっていい。もうぜんぶ、ほかのものが一つも欲しくなれない。
「ねえ、すき。したい」
じぶんの声をはっきり聞いてうわずってると思った。
わたしは空に飛び込んで、お願いを届けた。
でもそれは、お星さまに伝えるべき声だったのに。
届け先を間違えたのだろうか。
いやこのアドレスで合っているのに。
こんなに近いのにアサミが遠い。ぜんぶが、ちぐはぐ。
「ごめん、るんばとは友達でいたい。
してしまったら、もう居られない。もうぜったいに。
るんばとは、できない。
わたし、
わたしレイプされたの。
あの前の彼氏の、周りの男に」
事態を飲み込むには、ほんの一瞬でじゅうぶんだった。
秒針と分針が一致して、その時間はつたえられた。すべての情報が、そこでカチっと、そのことを示した。
あの部屋にアサミのいた時が、どんな時だったのか。
連絡の取れなかった日々。何日も動かないカーテン。アサミの痩せすぎた体に、季節外れの長そで。真夏にガタガタとふるえる体。
あの部屋の住人はハイエナの下っ端だった。さらに
ゲスなことに、奴はハイエナの巣からくすねたエサで アサミと暮らしていた。エサが諭吉に変わるとき、代償をもとめ、人の大事な何かを ぺりっと 剥がして持ち去った。鱗の一枚もなくなった男は、とっておきの隠れ蓑を見つけたのだ。
アサミの体が 生贄のために ここに在ったと、知らされたときは、すでに 部屋に 何人ものハイエナが
押し入ったときだったのだそうだ。
この理不尽な仕打ちと、道理のとおらない理由を聞かされながら、アサミは自分を呪った。
その金で遊んだ時間と
なにも知らなかった 鼻の利かなかったじぶんを。
アサミに起きた出来事をわたしは淡々と聞かされた。とても詳細に。だれの話なのかわからない話し方で。
聞き終わったとき、わたしにも呪いはうつっていた。
わたしは自分の言葉が、その呪いに加担したことを知って言葉もなく後ずさった。
経験のないことを言葉は沁みないのかもしれない。もしくは、よく知りすぎていたから言葉にならなかったのかもしれない。アサミの言葉から、もう何も感じられなくなった。
たぶん、それまでのいくつもの後悔の中でも、いちばん自分が踏みたくないものを選んでいた。
アドレスはまちがっていなかったけど、この届け物は間違いだった。
着払いで返品を受けて立ち尽くし、もう後ろにしか 歩けるところがなかった。
部屋から出たあと、階段を逃げ下りていく自分のうしろ姿を、わたしはよく覚えている。
打ちひしがれたのか。
もうぺしゃんこすぎて、
水のひとしずくも 絞れない情けない背中。