50th バンジー
noteをちょうど50書いたので、スキ順にしてみた。
こうしてみると
書いた後に どうにでもなれ、と
崖っぷちから飛び降りたときの
タイトルが並んだようにおもう。
突飛な小3男子なだけです母からの遺品双子の花コンパスの針は 幸せ取説 を指す深夜の首都高に響く声24hその人難波の踊り手心の闇を癒しましょう。なんざ、いとおかしってなもんで。深夜のボヤキ
もうこれで 50回は自分を捨てられた。
10回は大きくとんだ。
残りの40も かなりのバンジーだったけど、
この10記事はとくに
バンジー前に 靴をそろえる余裕も なかった。
このやり方は まだ実験中なのだが
できるだけ
出した言葉を推敲しないようにしている。
置き換えてしまうと、
もうダメになって
鮮度が落ちた気になるからだ。
そんなこと言いたかったんだっけ
すぐに迎合するじぶんは
長いものを喜んで身に巻き付けてしまう。
いい言葉、いい表現を探すことは 訓練になるし
自分の言いたいことに 的を絞ることが出来るし
推敲自体は必要だとモチロンわかっている。
誤字や脱字は
わたしの 隠しきれないヘッポコさを あらわにする
意味の不明瞭なつながらない単語が、
音の美しさだけで 沸いてしまい
さも自分の座席とばかりに納まっているのを見ると
どうしてそう流されて生きてしまうのだと
自分のこころを見てしまった気になって
少しへこむ。
そのように普段から生きて取り繕っている姿を
推敲するじぶんに感じる。
言葉が過剰であるとき
その鋭いナイフの輝きに
前後を合わせなくてはならず
他の言葉までガタガタと崩れる。
合わない単語で止まってしまい
もう進めなくなる。
そこの違和感で 結局
真ん中の部分から頭の先とつま先の色を塗り替え
ああ、こんなんじゃ違う。となる。
推敲は読み手のためにあるのだとおもう。
良い文章はトコトン読み手のために生きていると
感じる。
読み手のためとは、
ひいては書き手のためなのだろうが
ほんとうに自分のための推敲が出来ている自信は
いまない。
まだ自分の長きに巻かれ
易きに流され
汚物を覆い隠し
どこかに 抜け道がないかと探している。
うそをつかない。
うそをつくな。と、
何度でも口うるさくいわなくては
このポンコツはペロリとわたしを誤魔化してしまう。
その 本当のことを言いたい気持ちと
本当に伝えたい気持ちが
いつもアンバランスだなとおもいながら
どこで支えたら釣り合いが取れるのかまだわからない。
折り合いをつける気はない。
どちらかを屈服させているから
崖から飛び降りるしかないのだろう。まだ。