涙のおうち。
「子どもはもういいよ。あの時を今また追体験するなんて、もう自信がない」
「2人目は?」と聞かれると、素直にそう答えるわたしは確かにいる。 あの日々は、確かにそう囁くから。
夫はまだ結婚する前、就職氷河期に入社した会社を何年かで退職したあと、クライアントの企業にジョインした。数年後、会社はリーマンショックの大波にさらわれた。会社のみならず、経営者の家もすべて津波にさらわれ跡形もなく人は散った。金は消えた。黒い影が群がった。
おぞましい津波を受けてもなお立ち上がる夫の姿に、わたしはめっきり惚れ込んだ。
妊娠中に、夫は知人と共同経営の会社を立ち上げ、わたしはそれを手放しで喜んだ。30代に入ったばかりの彼には、まだ諦めのつかない火が燻っていたのだ。
そういう火が好きで、それが灯った夫の体を大切にしたいとわたしは思った。
その火をうっとりと眺めながら、わたしはお腹の中にあの火が灯っている事実を愛でた。幸せだった。(あの時愛でたのは、わたしの選択そのものだったかもしれない)
ただ火を眺め、見えない胎動を喜ぶだけの日々はあっという間に終わり、そこからは異星からきたフワフワの宇宙人との、2人だけの日々が始まった。 その日々は、あの火を見たわたしの記憶を遠くへおしやろうとした。目をくらますには十分な、子育てという新たな強烈な光に晒されたのだ。
強すぎる光は盲目にさせる。他の物が見えない。夫の火さえ、見失い、無き物にしようとしたわたし自身を、わたしは、どこかいつも、いつだって、バランスを取ろうとしていた。心の中に異質の感情を共存させることで、自分を保った。
比喩を使い、生々しい説明を省くことで、この事を書けるようバランスを取るのだとおもう。
今はもうどこにも、あの時のように不自然なまでに中立的にありたいという気持ちはない。あの時、子どもの光を取るか夫の火を取るか、究極の選択を避けたことは賢明だったと、いま2人の寝顔を見ては、過去の自分を褒めたくなる。
あの日々をわたしサイドだけで見れば、どのようにも闇に塗ることは、出来るだろう。ただ無理やり掘り出して、問題として取り沙汰すために必要な、あの穿った物の見方を取り戻すのが、もう難儀になってしまって、そんな風に書く気持ちが湧かない。
新米父の成長譚でもなければ、新米母の聖母譚ともほど遠い、単なるいち人間の中で行われた、数日の心理過程を記したいだけなのだ。
ただ厄介だ。
あの感情の記憶だけは、いつだって生々しくこの体に取り戻すことはできる。
わたしの感情の記憶はいくつもの引き出しに丁寧にしまわれていて、少し開けば、あの黒い空気と共にダラリとあの時のそれは、垂れ落ちる。
とろり、と黒く艶めいたあの感情の生々しさと烈しさを見つめてみると、若かったなと思う。幼かった。 幼かった自分が得たあの感情は、とても素直にいま、冒頭の言葉をわたしに紡がせる。 それは確かに嘘ではない。
胞状奇胎という葡萄粒となってしまった幻の2人目がいると分かった時も、まだあの感情の記憶は、かかとあたりにベッタリと張り付いていた。
喜びと同時に悲しさを、驚きと同時に落胆を、誕生と同時に死を、同等に味わった。
この体には、いくつもの引き出しから自在に水や空気や音、匂いをまとわせていて、どれが本当の気持ちなのかいつもわたしを戸惑わせる。 そのどれもが本当にあったことであり、フェイクでもある。 あの冒頭のセリフも、人との付き合いにおいて、便宜上使える類のシロモノとして社交上ストックしていると言われれば、その側面もあるかもしれない。使い道がある、方便のようなものでもあるかもしれない。 つまり今の本当の気持ちは、これだけだとも言えない。だけど、嘘でもないから、そう言う。
厄介だ。これは厄介なんだ。
ここ数日、月のものが巡らず、久々に1日寝込んだことで、またあの感情が巡ってきた。
もしまた、あんな日々がやってきたら。今、出来るのかわからない。
あの時は本当に若かったから出来たのだとおもう。がむしゃらだった。数メートル先の子どもがお腹が空いて泣いているのに、目眩と高熱で這って動くことさえ出来ず、仕事中の妹に連絡した最中に気を失ってしまい、目を覚ますと目の前に役所の職員が立っていたこともあった。
メチャクチャと書くより滅茶苦茶の字面の方が、心境としては合う気がする。
いよいよ昨日、検査薬を買いに行こうかと思ったその時に、きた、と分かった。 数日の様々はただの杞憂に終わってしまったし、どこか安心はした。 そして、ようやく、どこかで期待もしていることに気がついた。
また1人家族が増えたらいいな。
そんなこんなを、たまたま連絡をくれた母に話したところ、ホロリと涙が出た。ホロホロと少し泣いた。
そう思ってる。たしかに、そう思ってる。そして今もう1人増えても、もうあの時と同じにもならないだろうとも、思えている。そう思える状況に、立てている。
喉仏すぎれば熱さ忘れる。なんてことは、わたしの場合はそんなに多くない。これは本当に、厄介だ。
積み上がるばかりの引き出しには、みっちりと感情たちがひしめき合っていて、今か今かと出番を待っている。 チャンネルを変えるだけで、そこにいつでもワープできてしまう。
自己憐憫とも違う。それらはどんなに生々しくとも、臨場感に溢れようとも、あくまで引き出しに入っているだけの過去だ。 ただ無くせない。生きていた証を、たまに愛でたくなる。そういう趣味なのだと、今は半分諦めているし、好奇心でまた開いてみたくなるのだ。コレクションは無くさずに集め続けたい。自分収集が趣味だ。
体にいくつもくっついたシャボン玉たちは、簡単には割り切れない。離す事も難しい。だって、離したら勿体ないと思っているんだ。 せっかく経験して得た、わたしだけのものなのに。
ねえあの時のみんな、報われるといいね。きっと大丈夫大丈夫。迎えにいこう。
ずらずらと沢山のシャボン玉が引き出しから溢れ、跳ねながら這いながら、引き連れて歩いた。
新しい仲間がまた増えたよ。
そんな風に、流れ落ちたこの涙たちも、新しくこの引き出しに加わったのだった。