子どもの普通、親の魔法。
最近は、子どもを使ってお金を稼ぐことが
ウェルカムされる場所があるそうだ。
書き出してみて、おおおそうなのか、それは世も末である…とおもう。
おもう、などと言っているが
この中身の実態は、ただマグマの海だ。
知り合いの自営業者が、子どもを自身のビジネスSNSに登場させ、神さまの話をしていると聞いてから
どうしようもなく違和感があり、いてもたってもいられない。
この青二才のじぶんを留める術など持ちたくもない。
本当のことを語れないなら言葉など扱いたくなんてない。
だったら海辺の清掃や
お蕎麦やさんやお手伝いで働いている方が
よっぽど生きているとおもう。
それはわたしの思想で
そういう生き方をしてきたという、それだけのこと。
かくいう我が家は、息子の学校嫌いという形で、わたしのエゴが噴出している。いや、いた、かな。最近は落ち着いてきた。
あんなに大変だったのに、何をしたの?と友達に言われた。対応策なんぞ、愛することしかなかった。しいて言うなら、子どもに向き合うという対応策を図った。
時間を使う
心をくだく
言葉を丁寧に届ける
丁寧に丁寧に、懇切ねんごろに
わからないことをすくい、出来ることを伝える。
できなくて大丈夫、あなたにはそんな必要がない人だから。
これからの時代はもうそんな時代ではないの。
そんな歯が浮くようなセリフや
確証のない言葉なんて使わなくても
あなたは大丈夫は表現できる。
あなたを愛してるを伝える術がある。
それを地道にやってるだけだ。
彼の、母というフィルターの中で、わたしは、今だけ通用する魔法を使う。いまのこの子どもとの関係性の中でだけ、魔法使いになれる。それは、親であるわたしに与えられた、かけがえのない職務だ。
さあ、一体だれが、あの親子を持て囃しているのか。
そんな思いでその親子の動画配信を見て
なんと、じぶんでも意外な感想を得た。
あれ?なんか、この子うれしそうじゃん。
小学生のその子は、とても幸せそうだった。ああそうか。本当に、いろんな親子がいる。その子どもがプレゼンする姿から、その親に似た発言が見える。いつも見ていることの証拠なのだ。お母さんを。
そして、その画面の中には、その家庭内の空気が伝わる。お母さんは塾の宿題をやりなさいという体で、子どもの動画配信の段取りを指示していた。
あ、そういうお母さんなんだ、この人。
構ってもらえてうれしいに決まっている。
愛されているようで笑顔があふれる。
ふだん、もしこのような時がもっとあれば、わざわざ人前に出ないのかもしれない。でも、そういう表現が向いているのだろう。
未来にはいつも現在の恩恵が、良くも悪くもつきまとう。
何をしてもしなくても。
誰がどうでもどうだろうが。
毎日がそうだとしても、
たまにそうなるのだとしても。
それが、この子の『普通』なのだとおもった。この環境がその子の『普通』だった。
現実の出来事を抽象化する力が強ければ強いほど、妄想は美しく舞い散る。その、人の生きる葛藤を嗤うなぞ、鬼畜の所業だとさえおもう。
子どもの代わりに、わたしは、そいつらうるせえよって言いたい。
自由に飛べ。飛び去れ。
わたしはじぶんの子どもにそう念ずる。飛べると信じることで羽ばたける。羽ばたくから飛ぶのだ。卵が先か、にわとりが先か。どっちでも好きな方を選べばいい。
ただ自由に飛び去れ。細かなメンテナンスを体で覚えていけば、この大海原を渡ることさえできるかもしれない。
いつか夢を見つけたときに、渡り切れると根拠なく言える日が、君に訪れるといいなとおもう。わたしはこの目で見届けるから。