今日の今日のきもち
日々が瞬殺でアップデートしてしまいます。
昨日をすぐ忘れてしまうので、備忘録としても、もう少し頻度を上げてつづっていきたい想いです。
先日のnoteで多くの方の前に、自分の想いを吐露しました。
いただいたコメントのやり取りをさせていただく中で気が付いたことがあります。
「命を天秤にかけられない」気持ちが、自分の中にごっそり見えるということです。
わたしのいう命とは、介護・育児のことです。それらを、ゆりかごと墓場ともいいますね。
もう少し突っ込むと、ゆりかごの前に母子の健康と生活の見通しがあります。ゆりかごの後には、歩き出す子の安全と教育という問題があります。
もちろん墓場の前にも、のっぴきならない人間の衰えがあり、その時は介護サービスや制度と関わります。最期の墓場の後には、大量の事務処理とお金の清算があります。(まだ終わっていません)
ここ2年は、ゆりかごと墓場を意識する生活をしていました。
ゆりかごと墓場の間にうずまく人の板挟みになっていて、とても疲れていたと、今ごろになって気が付きました。
保育園に子どもを預ける罪悪感も、病院で親を看取る罪悪感も、世の中からなくなればいいのにと切に思っていました。
子どもの命を守る人が、親の命をどこまで守ればいいのか、わからなくなりました。
でもわたしのこの思いは、「世の中」に向かっているわけではないのだと思います。
じぶんの中に、この罪悪感を感じなければいいのに、と思っています。
でもそれは出来ないことでした。
ただでさえ難しい問題だと思いますが、こと自分に関して言えば「命を天秤にかけられない」想いを強くもつに至るような、生き方をしてきてしまったからです。
友人・知人など近しい人の死がすぐそばにあったから、人の命を考える機会が多かったと思います。
けれど、自分の命も命であることを、すっかり忘れていたようです。
いざ自分の命を生きようとすると、人の命を考える自分が邪魔になります。「死なせないように」と思っているから。間に合うようにと。(もう間に合わないことがないように)
具体的にいうと、夏休みに子どもを1人で置いて仕事が出来る方法だとか、夫の給料が減ることなく介護を続けられる方法だとかを考えてきました。
その方法すべて、自分の時間をあてがって対応してきました。
まるで良い人のようですね。
美談のようです。
でも本当のところは、わたしが怖かっただけなんじゃないかと思うのです。
自分のことをやることが。
いっそここで、振り切ってみましょうか。
「もうわたしは自分の将来のためになることしかしません」
「子どもを夏休みも置いて働きます」
「二度と病院から緊急呼び出しがあってもいきません」
そんなの、言えないな。
そんなこと言えないんですよね、やっぱり。
怖いんです。天秤にかけることが。
わたしは自分の命を天秤にかけて、人の命を守ってしまうところがあるんだと思います。
それならそれでいいと、もう決意したい。そう振り切ろうと思います。
もうそうとしか生きないんじゃないかな。
仕方ない気がします。だってそれが普通だと思ってるんです。
そんなわけで、なぜこんなことを書いているかというと、明日驚きの事態になってしまったからです。
念願の税理士事務所の面接にこぎつけてしまったようです。
まあ職歴と志望動機に一貫性もないし、夏休みの対応も見つからないので、週2日程度しか働くこともできませんし、時短しかできないし、不安要素しかありません。近場に今日の今日、助けを求められる親戚もいませんし、「今日の今日」というサービスもありません。
この人材がどんな仕事を埋められるのか、逆の立場で考えてみて、ちょっとハテナです。
でもまあなぜそこに応募したかというと、楽しかったのです。簿記が。いや本当におもしろかった。あんな逃避方法があるとは思わなかった。(楽しかったことを逃避と言って疑うのは、クセです)
これからは、楽しくてたまらない気持ちも、吐き出していこうかなとおもいます。
どんな形になるかわかりません。
わたしのこれまでは、今も、お金と命とは切っても切り離せない生活(実家自営、夫の自営、自営破綻、年金、介護、病院、葬式、通院費など何人ものお金の不安話に関わってしまった)でした。
人のライフシーンととともにお金と命の物語を泳いできたように思います。
この物語には、血縁に関係なく人の感情と、記憶と、願いが浮遊しています。そこに関わる人の葛藤は、金額うんぬんではなく、膨大です。何しろ、溢れて止まらないのです。着地点が想像できないのです。
いつか、書きたい。
それは自分へのいつかのご褒美にしようと思います。
もっと泳ぎます。大人というのはいいものですね。もっともっと命を天秤にかけて、もっともっと右往左往してみます。自分の中のちょうどいいポイントがどこなのか、探ってみたいと思います。