沈黙を扱う所存
あまりのリアリティに20年経っても思い出せる
夢なんだか思い出なのかわからない記憶がある。
母の友人が乳がんで亡くなった
わたしが中学3年のときの、ある日の夢のことだ。
のりこさんは、近所に住んでいたらしいがどこの家かもわたしは知らない。母とは自分自身も、子どもの年齢も近かった。
のりこさんは母に特別な感情を抱いていたとおもう。
子どものじぶんですらそう思ったのだから
母本人には、さらに思うところがあるようだった。
時折のりこさんの話を母から、自慢なのか困って
いるのかわからない口調で聞かされた。
2人ともよくそんな大変な位置にいれるな、と
わたしは遠くでそれを聞いた。
2人は同じ英会話スクールに通っていた。
輸入業と、たまに通訳ボランティアをする母の後
から、のりこさんは入会したそうだ。
何の仕事をしていたのか聞いてはない。
しかし必要に追われているわけでは無いだろうに
こんな田舎で英会話を学ぶとは、
どんな期待を自分に持っているのか気になった。
どこかアンバランスさを説明しきれない人だった。
母はスクールの教師をよく家に招き、わたしは必ず
オリジナルスパイスの鳥唐揚げを大量に作った。
のりこさんは娘2人を連れてくることはなかった。
わたしは、当時高校生の2人が、親の友人宅に来て
チキンをつまむ理由がないのだと理解していた。
わたしもそんなに楽しくはない。
丸暗記した英語の教科書をそらんじる会話にも
飽きていたし。
この部屋のカオスさをある程度楽しんだら
じぶんの部屋に引きこもった。
若いアルバートというカナダの青年が、あの田舎で
英会話教師だけで生計を立てられたのは不思議だ。
それほど需要はなかったはずなのに。
それとものりこさんのような人が
実はあの町には沢山埋もれていたのだろうか。
親切な現地の人妻が異国のファミリー体験をさせてくれることを、本心で喜んでいたのだろうか。
少なくともなにか目的があったとおもう。
でなければ、愛想の悪い子どもに囲まれる時間を
何度も繰り返した動機が説明できないし、薄々、
カナダの男は対人不感症なのではと感じていた。
のりこさんと母とロバートの3人の部屋からは
のりこさんの声はあまり聞こえなかった。
拙い暗記英語を話すことは、大人のマナー違反だと
思っていたかもしれない。
わたしの中でのりこさんは、母よりも真面目な人
という印象にとどまった。
のりこさんが亡くなった話を聞く前日に
わたしは夢を見た。
故郷に辿り着く手前にある、山の向こう側で
わたしは母の運転する車の背後に座っていた。
対向車線に停まるバスに、人が乗り込むのをみた。
そのいちばん後ろに のりこさんを見つけた。
のりこさんは一瞬で、ハッと顔を固くした。
わたしではなく、母を見つけ、列から飛び出した。
裸足で、いい大人が髪振り乱して叫ぶのだ。
ちがうの、ともこさん、ちがうの!
これはちがうのよ、待って!待って!
ちがうの……!
わたしたちの車の後ろを すごい形相で追いかけ
のりこさんは、母に、叫んでいた。母だけに。
運転中の母は聞こえていないのか、前を見ていた。
おそらく今夜の夕飯の段取りで頭がいっぱいの
ようだった。
そんな風に、母はじぶんの最善を考え始めると
周りが見えなくなる無神経なところがあった。
無神経さを羨む気持ちをわたしはよく理解できた。
その無神経に無数に傷つくということも。
のりこさんが3人の部屋で、ニコニコと座り続けた
座椅子は、沢山の汗で湿っただろうということも。
のりこさんの声は届けたかった人に届かず
届かなくていい人に聞こえてしまった。
翌朝、その夢を話すと母は真っ青になって、
のりこさんは昨日死んだと言った。
そうだとおもった。
そうでなければ説明がつかない、とおもった。
あの時、悲痛な声が聞こえない母の横顔を
わたしは普通の人の顔だと思って眺めた。
なんの罪悪感も生まれるわけがない。
母は、わたし達の母として、ただいたのだから。
わたしは、あの声を聞いてしまっては
いけなかったのだとおもった。
それは、のりこさんの大事な声だった。
彼女が届けたい人だけが聞くべき声だった。
わたしは戸口で聞き耳を立ててしまったような
いたたましさを感じた。
わたしがいくら代弁をしても
母はあなたの声色までは聞けやしない。
あの声は、あのまま聞かなくては
本当のことが聞けないのだ。
もう彼女がしゃべることはない。
伝えたいことは、なにも、伝わらなかった。
じぶんに向けられていなくとも
人の強い感情を見て見ぬ振りすることは、
わたしには難しい。ずっと。ずっとそうだ。
だけど、本当に伝えたい人に届かない
言葉の伝達ゲームほど報われないことはない。
代弁者は、代弁者の声音しか持たない。
本当に言いたいことを伝えるのは、
その人の声でしかできないのだとおもう。
声が出せるように黙っていてあげるしかできない。
そんなときがある。
黙っているようで、心中は全く冷静にはなれない。
祈りは沈黙になる。
沈黙の中で行う声援なのだ。
それがわたしもできるはずだと思ってる。
できないことはない、ああすればいいのだ。
信じることを粛々と進めるのだ。