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父の命日に想う~X JAPAN[DAHLIA]を聴きながら~三十年越しに爆発した悲しみの感情

5月14日。今日は父の命日である。

何回忌だっけ?1992年(平成四年)に亡くなったから、今年で二十九回忌か。

命日を前にしたこの2・3日、僕は無性にX JAPANの[DAHLIA]が聴きたくなり、この記事を書いている今この時も無限ループで聴き流している。

[DAHLIA]とは、1996年2月に発売されたX JAPANの曲で、ウィキペディアによると、

タイトルと歌詞についてYOSHIKIは、DAHLIAという名前の架空の少女が異国の地で経験する悲しみや挫折感など様々な感情を、自分の気持ちとオーバー・ラップさせたと語っている

という。音楽には余り詳しくなく、熱狂的なX JAPANのファンではありません。
それでも今、このDAHLIAが無性に気になってしょうがないのである。
僕にX JAPANを語る資格がないのを承知の上で言わせて頂くと、YOSHIKIさんの激しいドラムや、hideさんの巧みなギター演奏、バックにはストリングスも効いており、何度も聴いているとやりきれない悲しみが込み上げて来る。

なぜ、急に[DAHLIA]が聴きたくなったのか?

父が亡くなった当初、僕は茫然自失といった状態で、泣くこともなかった。

周りの皆が悲しみに明け暮れている状態をよそに、途方に暮れていた。

悲しみの感情よりは、「絶望感」に対して途方に暮れていた。

父が生きていた頃に日々抱いていた「人生への明るいビジョン」がバッサリと切り刻まれたことによる真っ暗な絶望感でいっぱいだった。

それから僕は受験・就職・結婚・転職などの人生イベントに追われて、生きることに必死だった。

30年近く経った今になって、ようやく落ち着いて物事を考える時間が出来た。

そんな状況で今年の父の命日を迎えることとなり、あの頃置き去りにしていた悲しみの感情を取り戻すように、[DAHLIA]をアホの様に無限ループで聴いているのである。

あの時、僕は10歳(小4)だった。1992年5月の情景

父は関東の病院に、1か月ほど入院していた。

父は関西の某所で開業歯科医の院長をしていて、実家は歯科医院と扉一つでつながっていた。

(通勤時間1秒。今思えば、理想的な労働環境ですね。)

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父は関東の大学の歯学部の出身で、1か月前に勉強会で関東に出張していた。勉強会の最中に、持病の悪化により突然倒れて、関東のA病院に搬送された。

母は歯科医院の裏方(受付やレセプト処理)をしながら、兄・僕・弟・妹の4兄妹の育児を頑張っていたが、父が倒れた知らせを受け、新幹線を使って関東のA病院まで直行し、亡くなるまでの1か月間ずっと看病生活を送っていた。

そう父の入院生活は、ちょうど1か月だった。

その1か月の間、母方の祖母が、僕たち兄妹の「母代わり」をしてくれていた。

覚えているのは、晩御飯のボンカレー率が高かったこと。テレビは、アニメの「横山光輝の三国志」や、島田紳助のクイズ番組「ダウトをさがせ」をよく観ていた。

父の逝去を知ったのは、実家の二階の子供部屋で、兄からの電話だった。

兄は実家から電車で20分の、母方の祖母の家にいた。
祖母は紳士服の商店を営んでいて、たまにお店のメンテナンスをしに戻っていた。

幼い兄と僕にとっては良い遊び場で、兄は祖母と一緒に祖母宅にいた。

関東の病院で看病生活の母からの「父が亡くなった」という一報が、母の実家の祖母宅に入り、そこにいた兄はすぐに実家の僕に電話した。

兄「あのな、父さん、亡くなったんやって…。」

1か月の入院生活中、僕の心の中で最も「起こるな」と思っていた事が、無情にも現実に起こってしまった。

体中の血の気が引いた。

兄と祖母はすぐに帰ってきた。

母は関東から、その翌日か2日後に帰宅した。

葬儀の段取りが、粛々と行われた。

父の遺体が、かつて彼の寝室だった場所に運び込まれた。
41年の短い人生を終えた父は、歳の割に白髪だらけで、やせてしわくちゃだった。晩年はいつもなにかと、しんどそうだったなぁ。

いつも行きつけの散髪屋さんが、父の最期の散髪をしにきてくれた。

父はもう動かなかった。ちょうどドラゴンボールでは、悟空がスーパーサイヤ人になってフリーザを倒した頃で、僕はマンガと現実の区別もできずにこっそり父に「気」を送り込んでいたが、父は蘇ってはくれなかった。

そして再び運び出される父。告別式。火葬。坊さんの長いお経。線香の香り。

灰となった父。父の寝室は、四十九日からお墓ができるまでの間、骨壺がおかれていた。

骨壺をおそるおそるのぞき込む僕。

「これがあの、父なのか。」

人の人生は儚いものだ。

いつも何か、ワクワクをくれた父。怒るとメッチャ怖かった父。偉大な父。

(僕が「父さん、子供ってどうやって産まれるん?」と質問した時は、

「ああそれはな、ち〇ち〇から白いもん出すねん」とド直球の回答をして、

生真面目な母に「アンタ!!何言うてるの!!」とブチ切れられた父。)

そんな父は、もういない。

晩御飯の時にはいつも家族6人分用意していたお箸も、一膳減って5人分で良くなった。

四十九日が終わり、お墓が建てられ、父の遺骨はそこに納められた。

仏壇が出来た。左右両サイドには常に、薄い青緑の丸い電気提灯が、延々とグルグル回っていた。

父のかつての寝室は、ユリの花がつねに供えられていた。

ユリの花、その香りは印象的で、いくら忘れようとしても忘れられない。
あれを嗅ぐたびに、僕の神経細胞から、三十年前のあの「父の死の一連の記憶」を呼び覚ます。
良い香りだとは思うのだが、抱き合わせの記憶があまりにもしんどい。

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それでも、当時「悲しみ」という感情は実感していなかった。

その後の人生を生きるのに精いっぱいで、悲しみを表現する時間は僕になかった。僕が生まれて以来の10年で、それ以上の悲しみがなかったために脳がバグを起こしていたのかも知れない。

あれから色々あった。

2020年5月。今こそ、あの時表現できなかった悲しみの感情を爆発させる時が来たのだ。

「悲しみ」を爆発させて自分の心のモヤモヤを整理して、次の自己成長への新しい一歩を踏み出したい。

さて、風呂も上がった事だし、もうしばらく[DAHLIA]をループさせましょうか。


最後に

今の新型コロナ関連や、災害・テロでも言える事なのですが、「本日は死者が〇人でした」という数量的な報道の奥底の現実として、一つ一つの「死」が存在することを、僕は忘れないようにしたい。

その上で、毎日を大事に生きたいなと思いました。

それではまた!

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