oasis house シェアハウスの経緯
東大阪のビルに住んでいるきっかけや、シェアハウスをしようと思ったきっかけを、落ち着き始めたいま、言語化の重要性がわかり始めてきたので、まとめてみようと思う。
2019年1月、奈良県天理市で「奈良のアツい20代を集めたイベント」を、僕の知り合いの人が企画していて、新年一発目、行動しようと重い腰を上げて参加した。そこには、たしか20人くらいの若い人たちがいて様々な業種の人たちで盛り上がっていた。中には、見たこともある人もいて緊張はしなかった。僕は現シェアハウス住民であり、oasisの仲間であり、親友の「中田直樹」を誘って行った。端っこの席で、こそこそを酒を飲んだり、隣に座っていたお兄さんとキンキキッズ の話で盛り上がっていた。
イベント終盤に、みんな立って話し合っているときに、ある女性が前にいて、「生駒で山岡ピザ、、、、」と言う声が聞こえたので、なんか聞いたことある名前やな、とおもって「山岡ピザ知ってます!いってみたいですー」と声をかけたのが、ハレのオーナーである大和夏花だった。
その場では、その一言くらいしか会話はせず、交流会あるあるのFacebookだけ交換した。
そこから僕は、連絡することもなく時が経っていった。
当時、僕は2018年12月に広島で行われたIKIMASU Rock Festival にスタッフとして参加し、アドレナリンが爆発していて、奈良でもこんなフェス がしてえええ!と興奮していたので、場所探しに取り掛かっていた。
平城宮跡に突撃訪問したり(失敗)、とりあえず興味のある人たちを集めてLINEグループを作ったり(失敗)、いろいろやっていた。
そこでふと、「あっ!そういえば、生駒にピザ屋さんの土地もってる人いたな、」と思い出し、その情報が曖昧だったので、1月のイベント主催者に確認をとったあと、夏花さんに連絡をとった。
たしか「遊びに行きたいです!」てきなメッセージだったと思う。
そして、2019年4月ごろに遊びに行くことになり、夏花さんと山の施設「SUN」での再会を果たした。
施設を見学。一度来たことあるのかな?というくらい自然に溶け込めた気がした。そしてお昼をすることに。「山岡ピザさんが予約取れなかったみたいなので、下の茶屋でもいい?」「いいですよ!」と言う会話はよく覚えている。
そこで、ご飯をたべながら1~2時間くらい話が盛り上がり、お互いの過去のことや諸々の話をした。そこで、僕ははじめて「ビル」が東大阪にあることを知る。あのときのお味噌汁は絶妙に美味しく、特別におかわりさせてくれた。(鬼の茶屋さん、ありがとう!)
その時僕は、生駒市でゲストハウス か シェアハウスがしたい!と思っていて、物件を探しに不動産を巡ったり、幼なじみで不動産で働いている子に聞いてみたり、いろいろしていた。同時期に、夏花さんも生駒で一人暮らしをしようと物件探しをしていたという。
そして、またしばらく時がたち、ゴールデンウィークの5月。夏花さんが生駒の施設「SUN」で *完全私的至極森体験 というイベントをするから遊びに来ない?と招待を受けたので、大学の友達、ゆうやと遊びにいった。
・・・(*完全私的至極森体験とは・・・
奈良県の生駒山(大阪と奈良の県境)の大自然の中で行われる、2ヶ月に1回の非公開招待制イベントです。その都度、誰かのやりたい!を実現してそれをみんなで楽しもう!という、なんともざっくりな趣旨で開催されるため、毎回予想外。流れに身を任せたイベント。)
そのイベントの初めの印象は、ベンツに乗ってるお兄ちゃん、高そうなギター持ってる人、海外に長期間住んでいたりと、「お金持ちばっかやん、、なんかアウェイやわ、、」って言う印象しかありませんでした笑。
ただ、いろんな世代の人たちが参加していて、一番下は高校生から上は僕が好きな音楽を知っている世代(吉田拓郎とか)がいたので、すっと溶け込めたと僕は思っています。(お兄さん世代の人たちばっかだったら、居づらかったと思う。)
そこで出会った、高校生の男の子がギター・レコードをもってきていた。僕もギター・カホン・レコードを持って行ってきていたので、運命を感じた。まさかのその彼と、好きな音楽も同じだったのは衝撃だった。出会ってすぐ特に会話もなく、ただひたすらに共にに弾き語りをしていた。(吉田拓郎、忌野清志郎、尾崎豊など)
これが、溶け込めた1番の決めてだとおもう笑
そして彼は、その父親と(後に出てくるヤスタカさんとの共同経営者)共に兵庫まで帰って行った。僕は寂しかった。もっと弾いていたかった。(6月に奈良・富雄のpilot coffeeで主催したoasis music liveに来てくれた)
その施設で1泊。上のヨガができる空間で一夜を過ごした。(よくこんな暑くて、むさ苦しい、虫多い場所で寝かせるな、、、)と感じながら。笑
そして次の日の朝、1Fで話をしていると、(ついに登場)ヤスタカさんが降臨した。ずっと話をしていたと思う。そのあと、サウナ施設の前に庭みたいなところがあって、そこに彼が一人で座っていた。僕は迷わず話しかけた。「歌謡曲」の話で盛り上がった。「今度、高齢者が集まる歌い場に一緒に行ってみる?」と言ってくれて、「はいっ!お願いします!」と、即答した。あと、竹の話もしたかな。
後日に、ヤスタカさんから「奈良先端の教授で竹の研究をしている人が山にくる」と連絡がきたので、いきます!と即答。山の施設に行くことに。奈良先端ということで、oasisの仲間である奈良先端大のMaxさんと一緒に行った。
正直、竹に興味はなく、ただ僕の祖母と父が茶筅師という話から招待を受けたのでその話し合いは上の空だった。笑 すみません。笑 (そのとき、なっちは秘書的なこと、お茶だしたりしてて、お嬢様で動かないタイプなのかなと勝手に思ってたので、ちょっと感動した。 余計なひとことかなw)
無事再会を果たし、それが終わってから、ヤスタカさん、なっち、Maxさん、僕の4人で、宝山寺にあるインドネシア料理店へ。遠慮せんと食ええ、と言っていただいたので、遠慮せずたらふく食った。美味かった。
そこでもいろいろお話をし、解散した。
そして6月に入り、初めてビルへ遊びに行った。かふん(後にシェアハウスに住むことになる)、Maxさんを連れて行った。ビルの案内、隣の天下一品でお話をした。僕はこのときから、「oasisの仲間が集まれる場」を作れれば!と心がときめいていた。
その数日後、ヤスタカさんから「高齢者が集まる歌い場に行ってみる?」とお誘いをいただいた。「どこだろう、それ?」とおもいながら、とりあえず、「いきます!」と連絡。
ビル近所の東体育館前で待ち合わせをした。彼がいた。そこでスナックということを初めて聞き、興奮した。小学生低学年のときに親と行った振り(アクエリアスのロックを飲みながらウルトラマンダイナの主題歌と尾崎豊のI Love Youを歌ったのを覚えている)なので嬉しかった。
がぼがぼお酒を飲んで歌った。(のちにこいつは遠慮知らずやから、危険や。破産するぞ!といわしめる行動www)ほんまにありがとうございます🙇♂️
めちゃくちゃ楽しかったのを今でも覚えている。そのあと、楽しすぎたので家に帰りたくなさすぎて幼なじみで谷町九丁目でシェアハウスをしているカイトの家に遊びに行った。
そしてまた数日後、なっちから「おかんがバーを開いたので、遊びに来て〜〜!」との連絡があった。行くしかないとおもい、留学生の友達を連れて行った。
そして7月に入り、気づけば僕は大和家に入り浸ることになったのだ。(居候生活の突入)
そこから僕は、夜な夜なコジスタのDIYをお手伝いすることになり(初めは嫌々やっていたが、だんだん楽しくなってきた。)、なっちと語り合う毎日。僕のやりたいこと「oasisの仲間が集まれる場」を作って、シェアハウスで物販とかできればいいなあと妄想が膨らんでいた。その妄想内容は今でも脳裏にイメージ図で焼きついている。(言語化するとすれば、シェアハウスのリビングで景色を眺めている僕がいて、そこにいろんな人たちが集まり、何かをしているイメージ。)
なっちも、海外でシェアハウス生活をしていたらしく、「シェアハウスやろう!」という話になった。ここからが旅の始まりた。
その当時、今まで以上に現実のことなど考えていなくて、金銭面とかマジで全く考えてなかった。(10月くらいになってようやく意識。大事さを痛感。)ほんまに、周りの人たちのサポートがなければ、できてなかったと思う。
301&302号室はほぼスケルトン状態だったので、DIYする必要があるとなり、僕は、「DIYしてつくろう!」とやったこともないのに考えた。
あれ、どうやってやるんだ。。仲間が必要なやと考えた僕は、5月に奈良・吉野で開催されたイベントで出会った「飛田ゆうと」のことを思い出し、招待することに。(そのイベントの主催者は、現シェアハウス住民でハレのスタッフである、「Yui」。すごいつながりやわ。)
そしてそこから、ゆうとが来て、Yuiが来て、いろんな人たちがリノベーションに協力してくれた。
ゆうとは、当時近畿大学建築学部4年生だったので、「DIYに興味ある学生たくさんいる!やってること共有したら、みんなやりたいはず!」と言う話になり、当時近大の1年生を招待。一緒にDIYすることになった。
その途中でお世話になっているレガサルトさんの事務所でたこやきバルを主催したり、東京・両国にある喫茶ランドリーの視察、小豆島旅行など、最高な時間だった。
このプロジェクトで印象に残っていること、それは「DIY合宿」だ。しゅーとやしみけん、いろんな人の友達の友達など、一度にごった返しに参加した「神イベント」が8月に五日間ほどあったのだ。このとき、みんなで一致団結して、部屋を作った。一緒にご飯を食べたり、一緒に寝たり、夜は酒飲んで語り合ったりした。
このシェアハウスプロジェクトと同時並行で、サマービル1Fでは2019/10/22にオープンした「ハレ」の工事も行われていた。
このときの状態を言葉で表すとしたら「スピード・勢い・とにかく動く」だ。普段は暑く感じる夏の気候も当時は気にならず、むしろ暑さに勝ったるわ!的な勢いであった。本当にやりたいことに向かっていたら、目先にある壁など気にしないんだなと言うことがわかった。
昔はめんどくさがりやだったが、とやかく考えだすと動けなくなるので、その考える前にとりあえず腰をあげるということを学んだし、現在実行中である。(朝がんばって腰上げおきよう)
・・・さて、集中力が切れて話が逸れ始めてきたので戻そう。・・・
2019年8月1日〜2019年10月31日の3ヶ月間、挫折しかけながらも、ほぼ毎日動き続け、ようやくoasis houseが住める状態になった。(現在もちょくちょくDIYで変わり続けています。)
目標は2ヶ月で完成で、10月1日から住み始める予定だった。
僕はその時期、モチベーションが上がらない時期だった。周りや時に身を任せすぎて、今僕はどこで何をしているのか、わからない状態だった。(原因は、他力本願、無責任な性格にあると思う。)
そこで、ビルオーナーであるヤスタカさんと、9月末にメンバー全員で話をすることに。
「本気でシェアハウスを作る気はあるのか?ないなら、途中でやめたほうがいいぞ」と。
僕はその時、心に火がついた。
「必ず10月までに完成させ、11月1日から住める状態にします!」
と、チームメンバーとヤスタカさんの目を見て睨み付けるような眼差しで伝えた。そのとき 尾崎豊 や 吉田拓郎の人生を語らず を聞いている時に起こる鳥肌が立つような、震えたつようなギラギラ感だった。
やったるぞ、みとけよ。と心に強く刻み、少しいままで怠けていた自分を反省し、その日から朝7時に起き、(昼と夜ごはんも食べずに作業していた日もあった。)、夜は23時まで作業に集中していた。まじで狂っていたと振り返っておもう。前までは、正直めんどくさい、誰かやりたい人がやってくれるだろうと舐め腐った考えだったが、次第に楽しくなってきた。そして、仲間の協力もあり、無事11月1日に住める状態になった。
そこから、シェアハウス生活が始まったのである。
僕は、シェアハウスを作る前から、「人と共同生活は無理。したくない。」と超ネガティブ思考だった。人と深く関わったことがなかったし、喧嘩が本当に嫌だったので、距離が近いなと感じるとすぐに逃げたりしていた。(現在も、人との付き合いは努力している。)
ちょっとだけ僕のことを知っている人からすると、まさきは社交的でずっと外に出ていると思われるかもしれないが、そんなことはない。
このビルに住むまで、(アメリカに10ヶ月いたとき以外)ずっと実家にいた。毎日家に帰っていたし。学校の友達からの誘いも、断ったりしていた。家では弾き語りをしたり、自然と触れ合っていた笑。弟がいるが、2ヶ月に1度ひとこと話すくらいのレベルで、会話をしない。それくらい本来の僕は無口なのだ。
すぐに人の悪口をいってしまったりするよくないところがある。(まだそのブラックマサキが出てしまうので、努力している。)
アメリカにいたときも、従姉妹の家にお世話になっていたのだが、3ヶ月で嫌になり、相手と本音で話をする前に出て行ったりした。
それくらい、人との深いコミュニケーションから逃げていたまさきが、よくシェアハウスできるなとおもう。母親にもいわれた。
ほんとうに本音で話し合いをすることは、いまだに怖いけど、変えて行こうとおもう。まだ道の途中だ。無理のない範囲で。自分のペースで。
まあ、いろいろと大変なこともあったり、今年に入ってストレスで2週間くらい部屋でずっと寝込んでいたときもあったけど、なんとか今を迎えている。
そこで気づいたこと、それは。僕は、人と人がコミュニケーションをとっているのを眺めるのが好きなのだと言うことだ。それは、oasisのイベントをしていてもわかっていたが、oasis 歌謡曲 barをしていて痛感した。
僕は、いつも1人か2人での行動が多かったため、それ以上の人数とは疲れる。その場ではいいけど、終わってから疲労感があるのだ。
でも、僕がバーカウンターにいて好きなギターで弾き語りをする。客席にいるお客さんが楽しんでいる。それが好きなことに気づいたんだ。
・・・続きは、また思い出した時に書こうとおもう。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。