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SNSの投稿に心乱されるとき、僕らは何に対して憤っているのか?言葉と心の不思議な関係

今さら僕が指摘するまでもなく、SNSでちらっと見かけただけの投稿に、心を乱されてイライラしてしまうことはままある。その大抵が、まったく見知らぬ人の投稿であるのにもかかわらず、だ。

もちろん、SNSの投稿すべてに全身全霊でレスポンスしていたら身が持たないし、はっきり言って時間と労力の無駄でしかないと思う。SNSを使うにしても、できる限りそうした投稿は無視し、自分にとって意義深かったり、面白いと思えたり、癒やしになったりする投稿に出会い、咀嚼することに注力すべきなことは自明だ。

ただ、意識的に気をつけていても、SNS上の扇情的/配慮に欠ける投稿にイラッとしてしまうことは、往々にしてある。

しかし、よく考えてみると、このとき僕たちは、何に対してイラついているのだろうか? 文字列そのもの? それともその投稿の裏にいるはずの投稿者? 会ったことがないどころか、顔と名前も知らないのに?


(※)本ブログは、株式会社PLANETSが発行する雑誌『モノノメ 創刊号』について、そのいち編集部員である僕が、個人的な所感を綴ったものです。このブログを通じて、より多くの方に『モノノメ 創刊号』を手に取ってもらい、既に購入いただいた方にはより多角的に雑誌を読む一助としてもらいたいという目的で書いています。

言葉というのは、とても不思議な存在だ。SNSの投稿を眺めるとき、ディスプレイに表示された文字(列)という一つの物質を眺めていると同時に、その奥にいる人や景色も同時に思い浮かべている

この不思議さは、映像や絵と比較するとよくわかる。映画や絵を見ているとき、僕らは基本的に目の前にあるスクリーンやキャンバスそのものを見ている。もちろん、それを見たことによってさまざまな感情や思考が誘発され、頭の中に別の人や景色が思い浮かぶことはある。しかし、あくまでも「見る」対象は、一つしかない。


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PLANETSの新雑誌『モノノメ 創刊号』に収録されている、[論考]福嶋亮大 「世界文学の制作 序:小説における並行処理」では、こうした言葉の不思議さの裏にある原理が、とても丁寧かつ鋭敏に解き明かされている。小説と文学の現代的な可能性を改めて考え直していく本格評論の序論として、「心」と「言葉」が交錯する場としての小説の表現特性を原理的に検討。

……小説という装置が一種の並列処理を内包しているということである。心的なものと言語的なものはパラレルな二つの領域である。この異質な二つの焦点を持ち、しかもそのいずれも優位に立つことのない楕円形の地平を形作ったところに、小説の特性がある。
……サルトルのたとえ話を借りるならば、小説は言葉の内部に入ってきた読者をその外へ──登場人物の感情へ、樹木や砂漠へ、人物たちの対話へ──はじき出し続ける渦なのである。それはどこか、周囲をひっきりなしに指差しする幼児の運動を思わせる。
 しかし、それでいて、小説は依然として自らが言葉であることと訣別できない。繰り返せば、小説の言葉は、それ自体が自己超越(変異)の運動を抱え込んでいる。しかも、小説には言葉以外の何かになりかわろうとする、もう一つの超越の衝動も取り憑いているのである。小説における並行処理は、この二重の超越と関わっている。

この論考は、編集長の宇野さんの言葉を借りれば、「「小説」という人間が言葉(のみ)で物語を記述するという行為そのものを、まず「言葉」と「心」の関係を考え直すことで定義し直す」というもの。SNSの話が出てくるわけではない。

しかし、言葉で物語を記述するという営みは、現代人がSNS上で日々行っているものでもある。そういう意味で、情報社会論、SNSとの付き合い方を考えるうえでも、大きな示唆を与えてくれると思う。


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