A先生と『モダン・タイムス』【#6:「好きだった科目」】
チーム長谷川メンバーが、毎月異なるテーマでマガジンを更新する「言葉を共有していく感覚」。至極パーソナルな話をしながら、メンバーを相互に理解しあうことが主な運用目的です。そして、今月のテーマは「好きだった科目」。
今回は、前回のいじゅーいんさんと同じく新参者の小池が書いてみます。
新参者ということで、半分くらい自己紹介みたいな感じになってますが、ぜひ読んでいただけると嬉しいです。
なぜか寝ずに話を聞いていた、A先生の「現代社会」
今回ご紹介したい「好きだった科目」は、確か中学3年生の時、A先生が教えてくれた「現代社会」。
僕の通っていた学校はいわゆる進学校でありながらも授業は全く進学校っぽくなく、各々の先生が勝手に好きなスタイルで授業をしていました。
ブラタモリのようにひたすら学校の周辺を散歩させてくる地理の先生もいれば、毎回授業の最後に必ずビートルズの曲を合唱させてくる英語の先生もいたり。
僕はそんな適当さが結構好きで、特に受験勉強に追われていた高校3年生の時は、逆に学校の授業が一番の休憩時間となっていました。
そんなフリースタイルな授業たちの中でも特に僕が好きだったのが、中学3年生のときのA先生の「現代社会」の授業。
A先生はやんわりと世捨て人的な雰囲気を醸し出していて、僕の学校の中でも特に進学校っぽくない方でした。
典型的な、生徒に「この先生の授業は睡眠時間に充てよう」と意志決定されるタイプの先生。
彼自身もいつもすごく眠そうでした。
当時の僕の頭の中といえば覚えたてのエレキギターのことで大半が占められており、学業に対しては至極不真面目な生徒でした。
普通に考えるとA先生の授業は睡眠時間に充てているのが自然はずなのですが、なぜかこのA先生の授業は一度も眠らず、内職もせずに聞いていました。
「みんなが寝ている授業に逆張りして起きて話を聴いているのがかっこいい」といった中二病マインドもあったような気はしますが、それ以上にA先生の醸し出すゆるい雰囲気が好きだったのだと思います。
『モダン・タイムス』の衝撃
そんなA先生の「現代社会」ですが、授業スタイルはいたって適当でした。
A先生が興味があるトピックについて、ただのんびりと解説していくだけ。
当時(いまもですが)社会問題になっていた大阪西成のあいりん地区の実態について10回くらいかけて解説することもあれば、思い出したようにいわゆる「現代社会」の教科書に載っていそうなトピックについて間に合わせ程度に説明するような回もありました。
そんなゆるい授業の中で強烈に印象に残っているのが、チャップリンの『モダン・タイムス』を見せてくれて、その批評的解説をしてくれた回。
映画の内容というよりは、その解説を聞いたときに感じた、普通の人は気づかない社会の構造をつかみ取って提示するという営みの力強さが鮮烈に印象に残っています。
『モダン・タイムス』は1936年に制作されたドイツの映画で、チャーリー・チャップリンが脚本・監督を担当。
チャップリンはキャストとしても出演しています。
いわゆるサイレント映画で、チャップリン演じる工場員が、監視下で休むことなく働かされる工場労働に馴染めず、偶然出会った女性と一緒に新しい生き方を模索していく映画。
中身が気になる方は是非見てみてください。
働き方改革の重要性が叫ばれ、近代資本主義的な労働時間の感覚=「モダン・タイムス」が自明じゃなくなりつつあるこのご時世だからこそ、観る価値のある作品だと思います。僕も観返したい。
さてA先生は、映画を一通り見せてくれた後で、
* チャップリンが、工場の時間からはみ出した落ちこぼれの役を演じることで、近代資本主義的な労働時間の感覚(=毎日決められた時間に言われた通りに決められた仕事をこなす)を批判したこと
* 映画中に出てくる羊の群れの中に1匹だけ黒い羊が混じっているが、それは近代資本主義的な労働時間の感覚に馴染めないチャップリンを暗示していること
などを解説してくれました。
今思うとどこにでも書いてありそうな教科書的な解説をしてくれただけで、特段鋭い批評というわけではなかったと思います。
だけど、映像作品を批評的に観る、フィクションを通して社会を眺める、という体験をそれまで全くしたことのなかった僕には衝撃でした。
普段は気づかないような社会の構造をつかみ取って提示する、という営みの力強さに圧倒されたのです。
その時にとったメモは、その後ことあるごとに読み返していたのを覚えています。(今ではなくなってしまいましたが...)
テニスかエレキギターのことくらいしかまともに考えたことがなかった当時の僕には、十分すぎるくらい強烈なインパクトを与える体験でした。
『モダン・タイムス』ではなく、ビジネス・テクノロジーについて考えるということ
その後、映画鑑賞の快楽に目覚めた僕はイオンシネマとTSYTAYAに入り浸って寝食も忘れて映画鑑賞に耽るようになり、後に映画評論家として身を立てる決意を・・・といった綺麗なストーリーには残念ながらなりませんでした。
授業後しばらくは放心状態でしたが、その1時間後にはもうエレキギターのことで頭の中の大半が占められている状態に戻り、TSYTAYAに行っても足が向かうのは映画コーナーではなくハードロックのコーナーでした。
だけど、微かではありましたが確実に、普段は気づかないような社会の構造をつかみ取ることへの享楽性・欲望が生まれました。
実際、その3,4年後の浪人生になった時から、評論や批評を読むことが趣味の一つになりました。
何か映画や音楽などのコンテンツがあったときに、そのコンテンツを味わうこと自体よりも、そこから社会の構造やメッセージをつかみ取る行為の方が好きになったのです。
そしてその原体験は、間違いなくあの中3の時に観た『モダンタイムス』にあります。
ただ、こんなことを書いていますが、僕はこの度ビジネス・テクノロジーについて考えるチームであるチーム長谷川にジョインしました。
『モダン・タイムス』のようなコンテンツ批評ではなく、あえて一見そういったドメインから遠そうなチーム長谷川に参画した理由は2つあります。
1つは、純粋に良質なコンテンツを作るノウハウ・経験を得たいから
僕は2年ほどIT企業でマーケティングの仕事をしています。その中でマーケティング目的のテキストコンテンツの制作にも色々と関わってきましたが、関われば関わるほど、マーケティング目的ではなくて純粋に良質なテキストコンテンツを作りたいという思いが強まっていきました。そしてやるからにはしっかりと良質なコンテンツを作っている人のもとで修行したいと思っていた矢先、リョーさんのアシスタント募集のツイートを見かけたというわけです。
チーム長谷川は一次情報に基づいたコンテンツ制作のみを行っており、しっかりとしてコンテンツ作りを学ぶにはこれ以上の場はないなと思っています。感謝です。
そしてもう1つは、今の時代は『モダン・タイムス』について考えるのと同じくらい、いやそれ以上に、ビジネス・テクノロジーについて考えることが重要だと思うから。
現代は、カリフォルニアン・イデオロギーの時代だと言われています。
1970年~1990年代までは虚構の時代と言われ、サブカルチャーなど虚構を通して自分の内面を変えていくことで人々が生きていこうとしていた時代でした。
対して今は、虚構ではなく優れたテクノロジーやプロダクトを市場に投入して実際に世界を変えていこうという潮流が強まっており、こうした潮流はカリフォルニアン・イデオロギーと呼ばれています。
ちなみにこのあたりの議論については、宇野常寛さんの『母性のディストピア』という著書で詳細に議論されているので、気になった方はご一読ください。
僕もその潮流には強く同意しますし、だからこそビジネス・テクノロジーについて考えることはとても面白く、価値のあることだと思っています。そうした想いもあり、チーム長谷川の募集に手を挙げさせていただきました。
なんだか最後はエントリーシートみたいになってしまいましたが、僕の好きだった科目「現代社会」をお送りしました。
見習いコンテンツ制作者として、泥水飲む覚悟で精進していきますので、どうか暖かく見守っていただけると幸いです。
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