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El Combo de la Paz -02

1st CDには日本を代表するサルサバンド、オルケスタ・デ・ラ・ルスのNORAさんから応援メッセージをいただいた。

『平和のバンド』の名のごとく、広島という平和を意識する土地に育った彼らが、メキシコからのラティーノに出会い、国境を越えて『平和のサルサ』を生み出しました!
 明るくハッピーなサルサのサウンドにメッセージがたっぷりつまった詞。聴いていると思わず笑顔になります。デラルスの日本ラテン化計画にも協力してくれている彼ら。
 広島からの熱くピースフルなサルサで踊りましょう!ファーストアルバム発売おめでとう!!! ORQUESTA DE LA LUZ NORA

音楽評論家の東琢磨さんからはCDのライナーノーツに詳しい紹介をいただいた。

エル・コンボ・デ・ラ・パス
ーゼロ年代以降ヒロシマの<ローカル・ミュージック>としてのサルサ 
 平和のコンボ、いくつもの意味で  エル・コンボ・デ・ラ・パス。

 広島を拠点として、主にサルサなどのラテン・ミュージックの演奏活動を展開している、このグループのCDを、今、みなさんはどのような経緯で手にしておられるだろうか? 
 広島出身で、音楽関係の仕事を東京でしたあと、帰郷してさまざまな文章を書くに至っている私自身としてもなんとも感慨深い作品である。若干、私自身の回想をも絡ませながら、若干、緩めのトーンで筆を進めていくことをお許しいただきたい。
  バンド名は「平和のバンド」といった意味になる。コンボというのは、ジャズなどに親しまれている方はよくご存知のように、スモールグループ、少人数編成のバンドスタイルを指す。さまざまな音楽によって楽器編成の質や規模も実に多様であり、多くの専門用語があるのだが、コンボは、数人単位ぐらいまでの編成を指すものだといっておこう。
  また、ゲームや一般的な辞書的な意味では「組み合わせ」を指すから、音楽に詳しくない方もゲーム用語で「あれとこれのコンボによる攻撃パターン」というふうな使い方で知っているかもしれない。
  音楽用語のコンボもずばりその語源と用法の「組み合わせ」からきているわけで、この「エル・コンボ・デ・ラ・パス」のコンボは、単に音楽バンドの編成を指すコンボであるだけではなく、語の正しい意味での「平和の組み合わせ」というふうに読んでもいいかもしれない。ヒロシマとサルサ、ヒロシマと中米、いくつもの音楽。「平和」のためのいくつもの「組み合わせ」によって、このバンドは成り立っているからだ。
  そして、このことは、ゼロ年代以降のヒロシマにおける<ローカル・ミュージック>の素晴らしいあり方をも示している。世界の音楽状況に詳しいフランス文学研究者・昼間賢さんによる「ローカル・ミュージック」(『ローカル・ミュージック 音楽の現地へ』、インスクリプト、2005年)とは「しょせん、ローカル」といったネガティヴなものではなく、グローバル化が進む世界のなかで、ジャンルや地域性によって、音楽を腑分けしていくのではなく、グローバルなものがローカルななかに混入しながら生まれたある地域の音楽をそのまま取り出すことをいう。
  まさに、エル・コンボ・デ・ラ・パスは、広島だからこそ可能になった、そしてあらゆる人びとのために開かれたバンドなのである。

  ジョーとアルバル、Latino Japones
 1964年に広島に生まれた私は、高校卒業後に進学した大学に退屈している頃、サルサという音楽に出会った。1980年代前半のことだ。まだ、この頃はLPレコードの頃で、私たちの先輩たちが熱心な日本語解説とともに、このまだ日本では知名度の低い音楽をリリースしていた。スペイン語という親しみのあまりない言語でエネルギッシュに展開される音楽に私は圧倒された。そこから紆余曲折があり、1988年に音楽関係の仕事につき、この音楽だけではなく、当時「ワールドミュージック」と総称されていた世界じゅうの音楽を販売する部門を担当するようになる。販売といっても、輸入も含めての仕入れ流通全般、また、紹介するメディアも少ないので、自らも筆をとるようにもなっていく。
  そうしたなかで、売り手=専門家と、客=音楽ファンという関係で出会ったのが、このアルバムの一曲目「Latino Japonés,=半分ラティーノ、半分日本人」というタイトルでテーマ曲を捧げられているこのバンドのベーシスト、ジョーである。1994年ぐらいのことだったか。
  新宿のお店のバックヤードにいた私は、売り場にいた部下から、質問のあるお客様の接客で呼び出される。そのお客さんは、いかにも懐かしい訛り丸出しで、しかし、実に細かくサルサの質問を浴びせてくる。「西の方から来られましたか?」という質問に、誇らしく「いえ、広島です」ということから話しが弾み、共通の知人がいたりも発覚したりの出会いだった。
  その後、私は、音楽全般だけではなくより広い領域に書く題材が広がっていき、今でも音楽評論家とは名乗っているものの、一時のようにはラテン・ミュージックを専門的に扱うことはなくなっていくのだが、ジョーの情熱はずっと持続していき、その成果がこの作品である。
 さて、サルサ・フリークであるジョーが「このCDの50%は握っている」と、アルバル・カスティージョさんはいう。だが、この作品が、ジョーとアルバル、そして、他の多くの仲間たちとの出会いがなければできていないことには変わりない。そのことにふれる前に、では、サルサというとどういう音楽であるのか、基本的なことにふれておきたい。

  カリブやラテンアメリカ、また、そこにゆかりを持つ移民やその子孫が暮らすUSAには、さまざまな音楽がひしめいている。サルサは、そのなかでもキューバ音楽を最大の成分に、プエルトリコやドミニカ共和国、あるいはアメリカのブラック・ミュージックなどを混ぜ合わせて、ニューヨークで1970年頃に生まれた音楽であり、単一のジャンルというよりも、ある種の音楽的・社会的現象のレッテルのように生まれたもの(ことば)である。「サルサはキューバ音楽」という人がいる一方で、「サルサはキューバ音楽じゃないよ」というキューバ人ミュージシャンがいたりするのは、そういう背景があるからで、なんとも複雑な音楽(現象・商品…)なのである。
  強引にいってしまえば、私などからすると、このエル・コンボ・デ・ラ・パスとの出会いを通して、何かもやもやとしたものが晴れた気もするのだ。つまり、ヒロシマとサルサは似ている、のだ。広島は単に日本の都市ではなく、世界じゅうの人びとに開かれている(いや、ひらかれていなければいけない)。サルサもどこかに属しているわけではなくて、北の都市のなかで生きる南の人びとを勇気づける音楽として「みんなのもの」である。本来、縁もゆかりもない、あるひとつの都市の名前と、あるひとつの(いや複数形の?)音楽の名前が似ているというのは、こういうことなのか、と。

 さて、このアルバムの最大の功労者はアルバル・カスティージョさんだ。1960年、中米エルサルバドルに生まれ、1980年から1990年までメキシコ在住、メキシコ国立自治大学で音楽を学ぶ。1990年に帰国、音楽を教えるが、1998年にメキシコへ再移住。大学に復学・卒業、さまざまな作曲活動をおこなう。広島から仕事できていた美和さんと結婚し、2006年から広島在住。  というのが、アルバルさんの簡単なプロフィールだが、内戦期のエルサルバドル/中米で生きてきた彼のライフヒストリーは、ここでは紹介しきれないぐらいに興味深い。もともとは、国境を越えたホンジュラス側にルーツがあるということから始まり、芸術高校で音楽などを学んだあとに、民主化を進める側の政治的な音楽活動に身を投じる。この時期に、多くの海外公演をも経験している。この辺りは、中米やエルサルバドルの複雑な政治的・歴史的背景があるので、ここではふれないが、いずれ、稿を改めて、何かの機会にご紹介したいと思っている。
  また、彼の音楽的背景も非常に豊かなものだ。まず、エルサルバドルでの民衆的・大衆的にもっとも親しまれている音楽はサルサではなくクンビアであること。また、上記のように、クラシックを学びジャズにも造詣が深い(ラテン・ミュージックの演奏家たちは、実はこのようなバックグラウンドを持つ人たちは少なくない)ため、今、私たちが手にしているこのCDとは、まったく違う音楽を今後、作曲家としてのアルバル・カスティージョさんが生みだしていく可能性が大きいということも明記しておきたい。
  ただ、「平和の組み合わせ」として、アルバルさんが人びとのための音楽を演奏し、たたかい、生き抜いてきた人物であるということは大きな意味を持っているのだということもまた強調しておくべきだろう。
 *エルサルバドルやアルバルさんと同時代の中米の状況について興味のある方は、アルバルさんもその翻訳の存在に驚いた以下の本をお薦めしておく。著書のひとりのダルトンの一族とアルバルさんは親しい友だちでもあるとのこと。 ロケ・ダルトンほか(著)、飯島みどり(編訳)『禁じられた歴史の証言 中米に映る世界の影』、現代企画室、1996年
   (東琢磨)


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