知性の祈りと霊の祈り
今朝も夜明け前から栃木市の総合運動公園を歩きながら祈っていた。多くの感謝を捧げ、毎日祈っている事柄を全て祈り終えると、あとは異言で祈っている。そして主の語りかけを聴く時を持っている。すると聖書の言葉が示されたり思いが与えられたりする。毎回である。
使徒パウロは「霊でも祈り知性でも祈ろう」(第一コリント14章15節)と語っている。この霊でも祈るという事は異言で祈るという事が、同章の18節19節でパウロが誰よりも多く異言を語ると言っている事で容易に解る。さらに「御霊もまた同じように、弱い私たちを助けてくださる。なぜなら私たちはどのように祈ったらよいか分からないが、御霊自ら言葉にあらわせない切なるうめきをもって、私たちのためにとりなしてくださるからである」(ローマ書8章26節)。
妻は何回も主の御子声を聞いているがわたしはまだ聞いていない。主にお仕えする者であるのにお仕えする方の御声を知らないなら主が指示される時どうして本当に主からの指示だと解る事ができようか。主は一般啓示もくださるお方だから、鳥や魚や草木を通しても語られる。勿論思いを通しても聖書の言葉を通しても語られる。しかし願わくば主の御声を拝したいものである。
サムエルのように「僕はここにいます。主よお語りください」といつも主の語りかけを聞いて答える者になりたい。さらにイザヤのように主の御声を聞いたら「ここにわたしがいます。わたしをお遣わしください」と言う者になりたい次第である。