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フレーズの帰着点を見据える

ベートーヴェンop68の第3楽章はアウフタクトから始まるのだが、このアウフタクトをどういう位置で捉えているか。それが「乗れる」かどうかに関わっている。

つまり、小節が作る拍節を

0 | 1 2 3 4 | 5 6 7 8 | …

と把握しているのか、

0 1 2 3 | 4 5 6 7 | 8…

捉えているのかどうか、の問題だ。

前者の把握はアウフタクトよりもむしろ1小節めの1拍めが明確赤になる。後者は0小節めの1拍めをきっかけにアウフタクトを呼び起こすイメージだ。アウフタクトに重心がかかる。

この二つの捉え方は、別な見方をすると、前者はフレーズの頭に合わせる目線であるのに対して、後者はフレーズの後ろに帰着するところへ合わせる目線ともいえる。前者のアウフタクトは軽くなるのは1小節めの1拍めに重心があるからだ。後者はアウフタクトがフレーズのきっかけによって弾き出されるので明確な発音になる。

これらは使い訳が必要だ。なんでもかんでも上に跳ね上げる指揮ではないのだ。前者はアウフタクトとそれが従属する次の1拍めに視点があるので上に跳ね上げる。だが後者はフレーズ自体を見ているので0小節めの頭を下に叩く。

この違いはアウフタクトをフレーズの外に置くのか、中に含むのかという大きな違いの上に立つ。そして、アンサンブルをどう捉えているのかという視点にも関わっている。つまり、フレーズの頭を合わせるのか、その帰着点を一致させるのかである。

このop68の場合、前者のようにアウフタクトを次の1拍に従属させるやり方は進行する方向性よりもそれぞれの四分音符の粒を並べていく傾向が強い。足し算的なのだ。それに対して、0小節めを起点と考える後者はフレーズの後ろに向かっていく視野にある。ゴール地点が見えているので、その点に向かう割り算の立場である。だから、推進力がある。

きっかけがあって、堰を切ったように帰着点に向かうアンサンブルのあり方は精度の面で危険を伴う。けれど、正確な音並べと運動としての音楽とではまるで立場が違うのだ。

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