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「飲酒 is エモい」がわからないのならもうキミはおじさんだし、俺はそこから去ってる

僕はプライベートであれ、仕事であれ、アルコール飲料を摂取することがほとんどない。
「なんだよくいるイマドキの若者じゃないか」と思った人も多いだろう。                                                                                                                                                                                                                                                                                
残念ながら、そう思ってしまったのであればあなたは、現代の飲酒文化からは乖離しているおじさん・おばさんになってしまっているかもしれない。

酒、ないしアルコール飲料はそのもの以外にも様々な要素を含んでいる。
古くからは神事に使われたり、現代ではコミュニケーションツールとしての側面もあるだろう。
酒は古くから人類の友であり敵だった。

現代においてはアルコール飲料の健康上の有害性は多く語られているが、最近特に深刻な社会問題となったのがアルコール・ハラスメントだろう。
これは「酒」というものの価値観が人によって異なることから生まれる、悲劇とも呼ぶべき問題だったようにも思う。もちろんダメなんだけどね。

僕は出会った時から酒が苦手だった。

アルコール飲料特有のあの香りがどうしても苦手で、飲むことはできても僕にはジュースのほうがおいしく感じられた。

好きじゃないものなんてそれまでの話のはずなのだが、酒に関してだけはそれだけに収まらない。
なぜか「ビールは飲めるようになったらおいしい」だとか、場合によっては「酒の一滴は血の一滴!」なんて言葉がグラスを空けるために使われたりもする。
そしてそんなことを言ってグラスを空けていたヤツが、気付けば植え込みに突っ込んで寝ている。アルコールによる奇行だ。
翌朝それを問いただせば「酔っぱらって覚えていない」なんてのたまうのだ。

僕はそんな人間の醜態も含めて酒が嫌いになり、酒の席を避けるようになった。

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僕の下の世代では更に「社会的な飲酒文化」を避ける人が増えた。

新聞には「上司との酒を断る若者が急増!」なんて見出しがつけられ、テレビでは渋谷と新橋のインタビュー映像を交互に映していた。

ブラック企業だとか過労死だとか、社会体制に縛られて苦しみ続けることの異常性が顕在化し、仕事よりも自分の身のほうが大切であるということが、上司との飲み会を無駄なものと判断させたのかもしれない。

ついに社会は長く使用していた「飲みニケーションツール」であった酒を、嗜好品の立場に戻すことを許容したのだ。
酒の席でしか交流できなかった哀れなおじさんたちは、鬱憤を晴らすために酒にすがり、居酒屋で仲間とくだを巻いたことだろう。

かと言って、若者が酒を飲まなくなったのではない。

彼らは飲みたい場所で、ストレスがないように嗜んだ。
誰かに合わせたり、気を使うこともない。
好きなように飲めばよかったからだ。
多分、繁華街で横並びに歩くサラリーマンよりも、よっぽどきれいに飲むだろう。
飲酒量も自分の体質に合った量を飲むようになった。

日本人の約40%がアセトアルデヒドを分解するのが遅く、二日酔いもしやすいという。

そんな彼ら、もとい私たち日本人にはコンビニの缶チューハイで十分だったのだ。

バーや居酒屋では「旧世代の」飲み方が蔓延し、それらは大声で騒ぎ、競い合うように飲む。
そこには互いの力関係や、暴力や、性の破片が散らばっているように見えてしまう。
そんな店では缶チューハイで済む楽しみ方を提供することはできない。
それを感じている彼らは自分たちの思う素敵な場所を探して、飲む。
世の中との乖離を感じながら。

その「自分の場所」での感傷的な雰囲気が、酔いによって増幅する。

新しい、なんとも言いあらわし難い感動である「エモ」である。

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昔遊んだ河川敷や、マンションに併設した小さな公園、人のいない神社や通学路から一本入ったほの暗い駐車場。
思い出の場所よりももっと身近で、郷愁が場所に焼き付いたような、そんな場所で大人になった自分が缶チューハイを片手に一人酒を飲む。
縛られた日中の業務からようやっと離脱し、こんな毎日を続けていくことに一抹の不安を抱きながら、それを嚙み潰して飲み込むのだ。

instagramやTwitterでその様子を投稿して共感を得る。
そこで彼らは新たな人間関係を築き、自分たちの体験を言語化し、伝播していく。現在少数派である彼らは、共感されることの感動は人一倍大きく、その結束は固い。


流行り病によって静かになった街は、彼ら「イマドキの若者」にとってさらに心地よい空間となったに違いない。

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