私が心動かされた言葉②
数日前、私が2〜4年前に書き溜めた言葉たちの断捨離も兼ねて、「私が心動かされた言葉」と題したnoteを書き残した。
順序が前後してしまったが、今回は16年のノートも断捨離しようと思い、②として書き残すことにする(過去のノートは2冊だけで、これが最後)。
16年、私は19歳だった。このノートは16年の10月24日から始まっていて、エステの仕事を離職し、気持ちが落ちていた数週間が過ぎ、前を向き始めた頃のことだ。
19歳の未熟な私は、自分自身が本当に何が好きで、何をしたいのかを求めていたようだった。自分を作るのは自分で、自分の人生を生きようと、本当の自分と出会おうとしていた。そして、ここでも小説から、救いになる言葉を集めていた。
心が震えるような、心から感じることがしたいと望み、《映画、舞台、旅、歌、睡眠》を人生の5大要素と書き記していた。人生を楽しむ秘訣は、どれだけ感動できるか、感動できるものに出会えるか(出会いに行けるか)だと。
確かに、20代の前半頃は舞台やステージ、劇団四季やサーカスを多く観に行った。その帰りの電車で、いつもの辛気臭い澱んだ箱がワントーン世界が明るくなったように見えて、目を瞑って静かに余韻に浸ったり、感嘆の溜息を無意識についたりするのが幸せだった。
そして、本当に馬鹿みたいな話だが、小説家になりたいと半ば本気で思ったりしたこともあった。フリーターで時間も心の余裕も沢山できた頃だった。図書館に通い、どうしたら小説家になれるのかを調べたり、よしもとばななの作品に胸を打たれて、片っ端から彼女の作品を読んだ。今思えば、紙屑同然の物語(恐ろしいくらい記憶にない)を紐で閉じて、封をして、恥ずかしい思いをして郵便局に行ったことは覚えている。
前置きが長くなったが、こうしてnoteに書けるくらい、19歳から20歳頃が笑い話にできて、本当に良かった。今よりももっと視野が狭くて、世間知らずだった私が書き残した言葉たちで、5年後の親元から自立した私が残しておきたい言葉たちをここに書き残すことにする。
《ほんとうの贅沢 / 吉沢久子》
人は考えることをやめてしまったら、自分らしく生きているとは言えない。
幸せのかたちが人と違ったからといって、自分が満足なら気にすることはない。色々な人がいて、色々な事情がある。色々な考え方があって、色々な変化が起きている。この基本を忘れないこと。
どうしたいか、どうありたいか、いらないものは何か。
「自分を知る」と生きやすくなる。「自分という人間がどれだけのものか」
自分ができること、やるべきこと、そして自分はどうありたいと思っているかを知っておくということ。できることもあれば、できないこともあるのが人間。いくら頑張っても、どうにもならないことはあるもの。
自分ができないこと、やらなくていいことは切り捨ててしまいましょう。言い方を変えれば、必要なものを選び取る。そうやって、生き方の方向性を自分で考え選んでいく。この過程を経ることで、人生は豊かになる。
幸せはその時々で変わる。
人間の気持ちは、明日どうなるか誰にも分からない。
自分の気持ちにアンテナを張る。
《ひな菊の人生 / よしもとばなな》
家族のことで傷ついたことがない人なんて、この世にはひとりもいないということも、もうさすがに分かってきた。自分は全然特別ではなくて、みんなそれにうまく対処したりできなかったりの差があるだけで、いずれにしても家族に慈しまれ育まれて、その反面家族というものに規定されてしまうのが人間っていうものなんだと、私は悟った。
《はじめての文学 / よしもとばなな》
相手が君の人生からはじき出されたと思えばいい。
《ハードボイルド / よしもとばなな》
私はその古いアパートとコンビニ弁当の暮らしの中で、徐々に大人になるための心の筋肉をつけていった。
《チエちゃんと私 / よしもとばなな》
仕事をして、語学の勉強をして、自分の部屋を整え、服装を整え、規則正しい生活をして、家計簿をつけて、余裕があればたまにちょっと贅沢なものを食べに行ったり、自分でご飯を作ってきちんと食べた後、デパートで買ってきたおいしいケーキを食べて、それに合う紅茶を選んで、まるで老後のような生活だったが、それが本当に続けばいいと思った。
《?》
できる限り笑おう。いつも笑おう。それは自分のためにできるたった一つの素敵なこと。誰かのためにできる最高のこと。
私は私だけの個人的な魔法を強く信じている。
人生とは動詞であって、名詞ではない。
道に迷うことは、道を知ることだ。
私はいつも自分がこれまで何をしてきたかより、これから何がしたいのかに興味がある。
人生は楽でなくてもいいのよ。大切なのは空っぽにならないことだけ。
自分から逃げれば逃げるほど、生き甲斐も遠ざかる。
おかしなことを考える女だけが、不可能なことを成し遂げる。
慎ましく食べ、慎ましく喋る。そして、誰も傷つけない。
劣等感というのは、あなたが感じているだけ。誰もあなたに植え付けることはできない。
幸せとは生きる姿勢じゃないかしら。
《小さな幸せ46こ / よしもとばなな》
小さな幸せは、たくさん集まるといつの間にかセーフティーネットになるのだと思う。小さな幸せはふっと人を救う。
人間は体に任せて生活するのがいちばんいいんだな、とさえ思った。疲れている時は沢山寝て、動きたい時は沢山動いて、体が勝手に調整していく。
よく寝て、健康で、時間も沢山ある感じがして、沢山考え事もできて、もし考え事が嫌いな人は沢山体を動かして、お金は贅沢までは行かなくても毎日の細々としたものを好きなように買える程度にはあって、たまに旅行に行けて、困ったときに少しまとまったお金が出せたり借りられる程度には信用や貯金があり、毎日していることがわりと好きで、さて、ここは一番ふんばるかな?という時が来たら、意外に(自然に)思わぬ力が出せたから、結果少し高みに登ることができた気がする。そのくらいでいいのではないか。
《永遠 / 村山由佳》
人を恨みながら生きても、誰かと笑いあって生きても、同じように人生は過ぎて行っちゃうのよ。
私の読書が好きだった感覚を蘇らせてくれた作家であるよしもとばななは、自分のことを小説家というよりは、考え方の角度の変え方を若い人に説くスピリチュアルフィクション寓話家だと、何かの本で言っていた。当時の私にとって、彼女(というのは、とても変な感じでおこがましいが)の言葉は心の浄化であり救済だった。彼女の作品に出てくる主人公は、バリバリ働いていることもないし、派手な生活もしていない。死に纏わるストーリーが多く、主人公や登場人物たちは感受性が強く、見えない力を察知する力があったり、その引力で幸せの方へ導かれていくような、絶対的な幸せではないけれどハッピーエンドになっている。優しい文章は、これでいいんだよという感じと、心の内に秘められた力に寄り添っている。
よく寝て、健康で、時間も沢山ある感じがして…という彼女の言葉が、私の中にエッセンスとして注ぎ込まれ、今でも活きている。
読書は心と人生を本当に豊かにする。その度合いは人に寄るのだろうけれど、数センチでも向く方向がずれたことにより、幸福度が増すことや気づくことが増えることがあると思う。1冊の本が心を救い、心の栄養ともなり、ちょっとした心地いい逃避行にもなる。
子供の頃に好きだったことが、向いている仕事に結びついたり、自分を再発見する鍵になる話はよく聞くが、私もちょっとした空白期間に図書館に通ったことで、よしもとばななの作品たちに出会い、自分が子供の頃に読書が好きだったことを思い出すと同時に、拙いながらも言葉を紡ぐことも好きだと気づくことができた。
そして、それが月日を経てnoteを書くことで消化できていて、日々のサイクルの中に組み込まれて、いい循環になっている。ひょんなことからポッと自分の好きなことが見つかることがある。
素敵な言葉は探し出すとキリがないけれど、その時々で偶然にキャッチした自分が留めておきたい言葉を大切にしていきたい。