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松本さんと情報社会と人間の話。

水谷うーすけです。

世の中SNS社会になって、色んな議論が飛び交っていますね。

そんな中でちょっと今日は偏向報道とかレスバとかそういうものについて。
ちょっと温度感が苦手な人は読まなくていいかも。

まぁ、この話題になるとどうしても僕たち芸人はダウンタウン松本さんの話がよぎるわけで。

僕が思うに、正直言って擁護してる人もアンチの人も、本気で松本さんのこの件について何かの意見を持って発言している人なんてほとんどいないんじゃないかなと思う。

殆どが一時的な個人の無責任な発言に対して、一過性のストレスをその個人に対してぶつけているだけ。

それが売り言葉に買い言葉のようになってどんどん広がって、いつの間にか擁護派とアンチに分かれて論争を起こし社会問題と化している。

でもふと我に返って考えてみればわかる。
東京のテレビで活躍している芸人さんはともかく、それらを享受する僕たちにとって、松ちゃんが居るか居ないかは「娯楽が一つ減るかどうか」以外、何の関係もない。
そんなことに熱量を注ぎ、不透明な先のテレビ業界の動向をさも知っているかのように、見ているかのように、自分がその運命の一端を担っているかのように議論を続ける人がいることが、ちょっと恐ろしくなる。

自分には、何の関係もないことなのに。

もしかすれば、選挙のようなものと考えているのかもしれない。
でもそれは国を動かす重大な人物を決めるために、国が公儀的に国民の意思を募るわけで、ダウンタウン松本人志の進退は一人の人生の話である。
他人が「当然の権利だ」と言わんばかりにその人生の選択に介入することは普通に異常事態なのでは、と僕は思う。

今回は被害を主張する女性が居て、それを文春にタレコミ。
それを否定する松本さんが名誉棄損で告訴。

まずこれを''あくまで事実だけ''で捉えるとすると

原告(''名誉棄損''の被害者) 松本さん 被告(名誉棄損加害者)文春
ということになる。

これを、「性加害者と被害女性」という構図に無理やり変換して議論を膨らませ、本人たちのことを一ミリたりとも知らない赤の他人が独自の結論を出し続けている。
正気の沙汰ではない。

そして原告側の松本さんが訴えを取り下げたことについて「逃げ」や「負け」等の烙印を押す。

世論の否定的な反応を見ているとまるで「被害者女性が松本さんに対して民事訴訟を起こし、示談金を支払うことで松本さんが訴えを取り下げさせた」と錯覚するような反応であふれている。

僕にはそれが理解できない。

確かに一度槍玉に上がった以上、疑惑は残る。正直芸能界に生きていて、そして成功していて誰からのヘイトも買わずにのし上がれるわけもないだろう。
芸能界の華やかな世界であれば幾度となく羽目を外すような隙は確かにあったかもしれない。それも想像の範疇でしかないが。

結局そういったやり取りの中で嘘と真実が人の悪意で交じり合い、浮かび上がった問題は結局当人同士の決着でしか折り合いがつくことはない。
人は結局自分の見たいようにしか真実を見ないからだ。全く関係ない無数の第三者の意見など、問題解決の足しにはならない。

だからこそ、僕はこの問題について松本さん側の姿勢(擁護とかではなくあくまで姿勢の話)はずっと正しいと思っている。
この問題について松本さん側は、メディアに対し何の情報も出してこなかった。
記者会見を開くこともなければ、説明責任(そんなものは当然存在しない)の追及を無視し続けた。
文春側だけが、絶えず続報を出し続け、進展を報告し世の関心をあおり続けた。

人は、謝る人間には石を投げられると錯覚する。
自分が正義であれば攻撃が正当化されると錯覚する。
だから''悪いことをしていないと主張するのであれば''、謝罪しないその姿勢はずっと正しい。
ただ、松本さんを諸悪の根源と信じて止まない人たちは、松本さんが謝らないから、直接石を投げられない。
だから代わりに松本さんを擁護する意見を「悪」と信じて正義の面を被って石を投げる。もしくは、姿の見えない塀の外から内に向かって放るように石を投げる。
そしてまた、その石を投げる人間に対して「そんなことをする奴は悪だ」と擁護派が攻撃する。

互いに信じた正義のぶつかり合い、SNSは戦争の縮図だ。
人間の根底にある醜悪さが、この情報社会には赤裸々に渦巻いている。

とんでもない時代を生きているよなあ、令和。
みんな、そんなに退屈なら劇場においでよ。
笑えるお話がたくさん聞けるよ。

こんなくだらないことにエンタメを感じられるなら、お笑いやライブハウスに行けばもっと楽しめると思うのにな。

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