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雑08|『毒薬大系』の編集発行

2024年 8月10日/記
(敬称省略)


 何者かになろうとして東京に出て頑張る、そんな上京物語は多く語られている。では、何者かになろうとして地方に向かう、非上京物語はどうなのか。非上京ゆえに生まれる表現活動というのがあって、帰郷後の5年間に発行した特異な形態の雑誌『毒薬大系』もその一例だと自負している。ただし、発行部数はたったの 25部で、社会的な認知度ゼロ、文化的な影響力なし、という代物だ。

                『毒薬大系 第1巻』1975~79年 (茶革バージョン)


帰京後、文化に飢える

 別文で語ったとおり、私は帰郷後すぐに犬山市で活動を始めた。生活圏である「地域」から変えなきゃいけないという発想から行動を起こしたわけだが、戦略戦術のないままやったので、簡単に挫折してしまった。
 その頃、飄々の人・江坂清作と出会って、おおいに癒やされた。が、共に活動するといった関わり方をしたわけではない。親子ほどの年齢差があり、抱えている文化的背景や問題意識は相当に違っている。やはり同世代と群れたいという欲求は強かった。そんなわけで自分が必要とする文化に飢えたのである。
 飢えながら向かった先は2カ所、その1つが名古屋だった。犬山にとって、ほぼ通勤圏内であり、広い意味で「地域」と言えなくはない。
 
 名古屋と言えば日本有数の大都市のはずだ。だが、それは経済活動から見た名古屋であって、文化面ではひどく寂しい町だった。独特の文化コンプレックスがあり、さすがに今では言わなくなったが「大いなる田舎」「文化不毛の地」という自虐的フレーズがまかり通っていた。これが文化活動を志す者にとっての大敵なのである。地元産はレベルが低いという観念が定着していて、地元から過小評価されてしまうのである。
 そんな名古屋で、さらに寂しく貧しい若者たちがたむろする「8号室」にたどり着いた。彼らは、当時の名古屋ではまだ少数派だった現代美術を目指して集まっていた。自分たちで場所を確保し、そこを拠点として動こうとしていたのである。私はこの「8号室」に関わり、共に活動した。単なる場所ではなく、小さいながらも一つの運動体だった。この辺りのことは別文で語ることにしたい。
 
 寂しい仲間たちとつるんでの活動は、藪の中の小道を歩くようなもので、先が見えず、薄暗かった。しかし、今から考えると、表街道に近いところを通っている枝道だった。現代美術が拡大していった時期であり、じきに表街道化していく。この点もあらためて語ろう。


京都時代から続く道、行き先は不明

 飢えながら先を急いだ、もう一つの道があった。行き先は不明の道だったが、道の出発地点は明らかで、それは京都時代である。京都時代は、美術活動を中心軸にしていたものの、ジャンル横断、社会運動と文化運動の融合、抑圧への反発、等々の様々な要素が混入していた。そうした活動を通して自らの資質と時代の刺激や特質が攪拌され、自分の基本精神が醸造されたのである。大甘のモラトリアム製だから数々の弱点があるけども、それが私にとっての第2の誕生だった。
 おそらく私の表現欲求は強かった。ただしジャンル不明、表現手法不定、方向性ランダムという、やっかいな表現欲求だったのである。雑誌『ゐまあごを』について書いた別文のとおり、当時の自分の表現を見返してみたら、〈エロ、グロ、ナンセンス、ヘンタイの気味があるし、ジャンル横断というよりも乱暴な飛躍の連続〉(注1)だった。それでも、それを受け入れる場や人がいたからこそ成り立っていたのである。場が得られたか、人が得られたか、それは本当に大きい。  
 
 帰郷後は、そうした場や人が一瞬で消えてしまったので、飢えに飢えた。ある程度は予測していたが、予測を遙かに上回ったのである。そして飢えを凌ぐためにやり始めたのが、季刊雑誌『毒薬大系』の編集発行である。主に京都時代の旧友から会員を募って始めた。
 
 具体的に説明しよう。まずは自家製の革表紙と革製綴じ紐を会員に送る。会員には読むだけの人もいれば投稿したい人もいる。そして投稿したい人から私のところに作品(完成品、半完成品、単なる原稿)が送られてきて、私がそれらを仕上げてそろえ、年4回発行する。つまり新ページを送るわけだ。会員は送られてきたページを革表紙に綴じ込んでいくことになる。

(注1)三頭谷鷹史個人ブログ「ジャンル横断雑誌『ゐまあごを』」(2023/2/10)


革を大阪で買う

 革は大阪に出かけて、花園町周辺の店で買った。なぜ花園町かというと、そこで店を見かけたことがあったからだ。学生時代に、単なる好奇心から、日本三大ドヤ街の一つだった釜ヶ崎(あいりん地区)の安宿に泊まりに行き、その時に革の店を発見したのである。

 この時のことはわりに覚えているので、道草になるが、書いておこう。その日に泊まった安宿は、日雇い労働者のねぐらで、今のカプセルホテルに近い形態だが、粗末な木造だった。湿気った布団の上を大きな虫が走っていたのを思い出す。どういう虫なのか分からず、少し気持ちが悪かったが、それでもなんとか寝た。いや、意外にぐっすり寝たような記憶である。朝起きて外に出たら、オネエ言葉を使う和服姿の中年男性から声をかけられた。この仕事をしないかと誘われたが、やめておいた。
 あちこち歩いた。道路脇では、数多くの違法露天商が軒を連ね、といったところで風呂敷なんかを地面に広げているだけのことだが、怪しげなバッタもんを売っていた。とても買う気にはならず、冷やかしで見て回った。繁華街の道路のど真ん中で、お婆さんが長々と小便をしているのを横目で見ながら歩いた。歩いた、歩いた。それがどこだったのか、よく分からないまま歩いた。そして、たまたま花園町(もしかすると隣の大国町だったかも)で革の店を見かけたのである。
 
 『毒薬大系』を革表紙にしようと思った時、その店を思い出し、あそこなら小売りしてくれるのではないかと思った。電話帳くらい調べたとは思うが、詳しくは覚えていない。50年も前のこと、記憶の濃淡は激しいし、断片化して散らばっている。ともかくその店にたどり着いて、牛革3枚、小さな馬革1枚、豚革1枚を買った。1975年、勤め始めて2年目のことだ、安月給をこんなことに費やしていた。


『毒薬大系』の開始

 豚革は薄すぎて役に立たず、牛革と馬革をカッターで切って表紙を作った。部数は、会員に配った「手順書」に「限定30部」と書いている。が、実際には25部前後といったところが正しい。どちらにしても小部数であり、雑誌のつもりでも雑誌として機能しないことは、当時も理解し、覚悟していた。いわば、会員間だけの回覧板のようなものだ。1975年の12月に革表紙と私の書いた「巻頭詞」を会員に送り、毒薬大系は船出した。

 なお、私の場合、時には部数を多めに印刷して、会員以外に配ったこともある。ただし、そう多くはない。なにしろ私のページは和紙を使ったので、洋紙とは規格が違っている。まずは大判の和紙を地元の紙屋で調達し、カッターで規格サイズに切り分け、それから一枚一枚謄写版で刷る。手間がかかるので大量生産は無理なのである。
 〈謄写版って何〉という人がいるだろうが、説明がむずかしい、ネットで見てくれ。ちょっと特殊なのは、ガリ切りではなく、その方面の内職業者に頼んで蝋紙に文字をタイプ打ちしてもらい、それを持ち帰って自分の謄写版で刷った。
 
 投稿者は、私を含めて7人だった。雑誌『ゐまあごを』関連で勝木雄二、間村俊一、表口義明の3人、そして勝木の紹介だったと思うが、藤本則由紀という人。この人の個人情報はほとんど知らない。さらに私が帰郷後に出会った蘭精果、海王めいむが投稿するようになった。「社会的な認知度ゼロ、文化的な影響力なし」が予測できた雑誌であり、世間的な意味での「得」はまるでない。それを〈よくぞ投稿してくれた〉と、感謝するほかない。

          『毒薬大系 第1巻』(黒革バージョン)

投稿者たち

 勝木からは、相変わらずの悪辣な表現内容の作品が送られてきた。別文で書いたとおり、彼の創作は特殊ながら一貫している。2014年に第三書館から『ヒルコ 鬼胎系/反魂譚 勝木雄二画集」を出版し、そこで独自の世界を展開している。が、〈遅い、もっと早く出版しろよ〉と声をかけたくなる。それに〈過去作品の全貌を晒せ〉とも。
 間村は私より7歳ほど年下であり、『ゐまあごを』への参加は遅かったので、彼との付き合いが本格化したのは『毒薬大系』時代からかもしれない。ちょうど彼の表現活動が活発化した時期だった。当時の間村は、『毒薬大系」への投稿だけでなく、同時に『火蜥蜴サラマンドラ王國誌』『鐵の處女』『緑葬館』などの創刊に関わり、絵画を中心にしながら俳句や装幀も手がけている。
 この頃の彼はまだ京都にいたのか、雑誌には表口義明、松村芳郎、西村秀次郎など、私の友人たちが多く関わっていて、ジャンル横断と混沌を絵に描いたような表現活動をしていた。今では装幀家、俳人としての地位を確立した間村だが、あの時代の混沌がどんな意味をもつのかが興味深い。
 
 『毒薬大系』の最初から最後まで投稿してきたのが表口義明である。同時に個人誌を発行したり、雑誌を共同発行したり、この時代を懸命に生きた。しかし、時代は変わっていく。廃刊後も時々酔っ払って夜中に電話をかけてきた。〈なあ、三頭谷、もう一度『毒薬大系』をやろうよ〉と。思い出すとチクリと心が痛む。当時の私は多忙になっていて、彼の願いに応えることができなかった。結局、別々の道を歩くことになった。その表口はすでにこの世を去っている。
 
 名古屋のウニタ書店の同人誌コーナーだったと思うが、いや、ちくさ正文館書店だったかもしれない、そこで『血の香』という個人誌を買って、本人に血判を押した手紙を出し、血痕付きの返事をもらった。それが蘭精果との出会いである。投稿されてくる彼の短歌は、まさに独自の作風で、妙な言い方になるが、最初から異端のまま安定していた。総タイトル「鱗粉の系譜」の下に妖しく官能的な短歌が毎回連載されていった。のちに森島章人の名で発行された歌集『月光の揚力』(砂子屋書房、1999年)に一部が再録されている。
 
 『毒薬大系』の名が世に出たことはほとんどないが、例外的に外部で記録されたケースが3度ある。一つがこの『月光の揚力』の後書きで、初期作品の出典として記された箇所である。もう一つは、海王めいむの場合だ。彼女は猫十字社の名で漫画家としてブレイクしたが、漫画の背景の本棚に『毒薬大系』を描き入れてくれたことがあった。彼女によると、読者はそういう細かいところまで見るのだという。〈あの書籍は何だ?〉という反応があったのか、なかったのか、確かめていない。
 さらにもう一つある。某会員(投稿者ではない)宅が公安?警察にガサ入れされた時に、怪しい雑誌だと、押収されそうになった。捜査対象とは無関係だと断ったそうだが、写真は撮られてしまったという。のちにその会員と会った時に聞いて知ったのだが、〈とうとうブラックリストに載っちゃったね〉と2人で笑った。こちらは公務員だから、本当は笑い話ではないのだけども。ともかく貴重な外部流出の一例となった。


さて、私は

 『毒薬大系』に掲載した私の作品はすべて言葉によるものだった。誰が見ても読んでも詩歌とか随筆の類いと受け止められただろうと思う。じゃあ、文学なのかと問われたら、明確に〈違う〉と答える。詩、随筆、長歌、短歌、俳句とかに擬した文章を書いていたことは確かだが、文学ジャンルに属しているという意識はなかった。
 発行してしばらくしてから、ある人がくれた手紙に、私の文章は〈書いている、というよりも、造形されてあるって感じ〉だと指摘していた。まさに、そのとおりで、私は「造形」していたのである。
 革表紙がすでに造形だし、それに文章に押し花を添えるのもオブジェ感覚の手法であり、植物に内在するアニミズム的な魅力を混入させたかった。だから押し花には単なる装飾とは違う意味と位置をもたせている。かつて『ゐまあごを』でも写真ページに押し花を添えたことがある。(注2)

 では美術かと問われたら、これがジャンルとしては一番〈近い〉が、やはり〈違う〉といった感じだ。それに、文化や社会に対する「批評」をも取り込みたかった。今考えると、無理無理な欲求を満たそうとしていたように思う。結局のところ、状況が大きく変わっていくのに、京都時代の精神のまま1970年代後半を生きようとしていたのだろう。
 ただし、外側へ向けた挑発や発散的傾向の一部を削ぎ落とし、できるだけ自分の内面に目を向けた表現に脱皮しようとしていた。内省の冷水で過剰を洗い、無理無理の、その芯のところだけは何とか延命しようとしたのではなかったか。 

三頭谷鷹史「雨夜の蛇」 1977年10月送付


 こう書くと、なんだか重苦しそうだが、そんなことはなく、本人は嬉々としてやっていたのだから、前向きだった。しかし、私の望んだ表現世界は、他者の評価はもちろん、自己評価もむずかしく、自分が歩いている道はおぼろげで、先が見えないままだった。そして、時とともに投稿者たちの、それぞれの立場や方向性が変わっていく。で、もはや『毒薬大系』が場として機能しないと判断し、巻を閉じることにした。京都時代以来の行き先不明の道は、そのまま荒れ野の中に消えたのである。 
 客観的に書くと、こうだ。ーーー『毒薬大系』は新ページを年4回送るのが決まりで、1978年の1月送付までは完璧だった。以後は投稿が減少することで遅滞し、失速する。1979年12月に「『毒薬大系』第1巻奥付」と「巻末詞」を送付したけども、この時に第2巻をやるつもりがあったのかどうか、おそらく断念していたと思う。ともかく、結果として、廃刊となった。1975年12月から数えれば、ちょうど4年間ということになる。が、自分としては、準備段階も含めた、約5年間という認識である。

(注2)京都時代に企画した演劇の舞台装置に大量の植物を使ったし、『ゐまあごを』『毒薬大系』、そしてその後も様々な形で植物を使っている。この個人ブログのバナーもそんな習性が影響しているのかもしれない。バナーには我が家の庭に育った花や植物を撮影して使っている。総タイトルと終末論に夕顔、いけばな論にヘチマ、雑言体に常磐オオヤマレンゲ。


墓を訪れて

 『毒薬大系』は、未完のまま、葬ることになった。その墓は誰も訪れることのない荒れ野の中である。ただし、私自身は、何度も墓を訪れ、骨を掘り出して齧る、と言ったら大げさだが、少なくともその後の活動の養分としてきた。
 
 廃刊の2年後には、美術評論家としての立場を手にして、以後は新聞や雑誌で批評活動を続けることになった。ただ、私が企画した展覧会を振り返ってみると、新聞雑誌での批評活動よりも、そちらの方が、より濃厚に『毒薬大系』、そして私の1970年代の精神が映し出されているような気がする。
 最初期から、生活問題や環境問題に絡み合う「オールタナティブアート もうひとつの美術から」(1984年)、ジェンダー視点による「女たちによる感性のモザイク111」(同年)など、社会的課題と美術的課題を横断的に捉えようとしていた。その後の企画も多くは一般的な美術ジャンルの枠内に収まっていない。
 著書にしても、ジャンル横断的な視点で書いた『複眼的美術論 前衛いけばなの時代』、八幡学園の福祉と教育を論じた『宿命の画天使たち 山下清、沼祐一、その他』を出版した。後者の著書では、沼祐一の短く壮絶な人生について触れたが、その懸命な表現は、芸術だとかアートなどといった言葉で説明できるものではなかった。この2著書は、発行元の美学出版が自由な執筆を許してくれたおかげでもある。
 
 
 『毒薬大系』は、いつも書棚の手が届く場所に置いている。さて、この際、自分にとっては重要な、何ものにも替え難い一誌だったと告白しておきたい。ただ、誰に向かって? 今は目の前の『毒薬大系』そのものに向かって語るほかあるまい。まあ、独り言である。〈なあ、君、僕が死んだ時は一緒に焼いてもらおうぜ〉。

 

(『毒薬大系』の編集発行 おわり)


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