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01|最後の前衛いけばな人、下田尚利 ①

2023年5月24日/記
(敬称省略)


 2019年2月10日、本当に寒い日だった。東京都中野区の新井薬師梅昭院で行われた葬儀で、私は下田尚利を見送った。亡くなったのは前年の12月だが、この日は大和花道家元としての流派葬だったのである。彼はいけばなの家元であり、しかも前衛いけばなの旗手であった。
 戦後の前衛いけばな運動の中で、もっとも若い世代を代表したのが「新世代集団」である。メンバーは工藤昌伸、重森弘淹、勅使河原宏、そして下田尚利の4人。しかし、皆死去し、最後に残ったのが下田だった。その下田もついに・・・89歳だった。

下田尚利
下田尚利《暗い眼》1953              下田尚利《扉》1989


「前衛いけばな」と「現代いけばな」

 私がいけばなに関わるようになったのは、1990年代初頭である。それまでも多少の関わりはあったが、この頃になって自覚的にいけばな分野に参入したのである。美術からの越境であり、それも40代半ばという年齢での中途参入であった。越境の理由については、自著『複眼的美術論 前衛いけばなの時代』(注1)に詳しく書いているのでここでは繰り返さない。
 当時のいけばな界には「現代いけばな」を名乗る人たちがいて、活動が盛んであった(注2)。第二次世界大戦後の「前衛いけばな」の流れを汲んで1970年頃に台頭してきたのが現代いけばなであり、そうした活動をしている人たちが、批評家として私を迎え入れてくれた。

 私の参入をとりわけ喜んでくれたのは、下田尚利(しもだ・たかとし 1929~2018)である。下田は、前衛いけばなの時代から最前線に立ち、現代いけばなにおいてもリーダーとして次世代の人たちを牽引していた。そして、この下田をとおして、現代いけばな以前の、前衛いけばなの時代の熱気や本気をも実感することになった。
 記録から学ぶことは重要である。が、その時代の息吹を伝えるのは、やはり人だ。ただし、人による。下田の盟友の一人である中川幸夫の場合、その業績は大きいが、苦闘が続いたことによる屈折があり、本心を読み取ることが難しかった。いや、苦闘した人のほとんどが何らかの屈折を抱えていると見た方がよいのかもしれない。下田には例外的な素直さがあり、だからこそ中川も下田にだけは友として心を許していたようである。そんな下田に親しくつき合えたのは幸運だった。実に多くを学びえたし、面白かった。

(注1)三頭谷鷹史『複眼的美術論 前衛いけばなの時代』美学出版、2003年。
(注2)現代いけばな活動をしている人のほとんどが、流派に所属している。流派の活動をしながら、流派を横断して連帯する形をとる。美術でも1960年代までは美術団体所属のまま前衛運動に邁進したケースは多い。ただ、いけばなの人は流派内で教えて生計を立てているので、流派依存の傾向が強い。


「いけばな改革」と「平和主義」

 ここで私的な感情を交えた話をあえて記しておきたい。私がいけばなに関わって数年たった頃だと思う。二人で会食をしていた時、突然下田が畳に両手をついて「三頭谷さん、すまない」と詫びたのだ。驚いて「下田さん、どうしたんですか」と尋ねると、「せっかく現代いけばなに関わってくれたのに、何も報いることができない」と言うのだ。
 経済的利益や学術的評価がえられないことを気にされていたようだ。現代いけばなに関わると持ち出しが多いし、学術面でも古典研究なら業績になるが、現代いけばなでは無視されるのが落ち。確かに当時はそうだった。また、東京を中心に展開している現代いけばなに対して、私の愛知在住というのはネックで、旅費や時間など、不便なことが多い。下田から「東京にいてくれたら」と愚痴られたこともある。
 もちろん、いけばなへの越境に意義と手応えを感じていたからこそ参入したのである。が、続けられるかどうかは未知数であった。しかし、両手をついたのは私より18歳も年上の人、そこまで望まれるのなら関わり続けようと腹を決めた。

 それから約25年、下田に協力し、また協力されながら、私はいけばなの批評と研究を続けた。いけばな専門紙『日本女性新聞』で批評活動を続け、2003年には美学出版から先述した自著『複眼的美術論 前衛いけばなの時代』を出した。また、下田が2016年に求龍堂から『いけばなと私 下田尚利』を出版する際には内容面で協力させてもらった。
 ところが2018年、下田が入院したとの知らせが届いた。急いで見舞いにいったら、「三頭谷さん、僕はもうじき死ぬので、その時は葬儀委員長をやってほしい」と頼まれた。大和花道という流派の家元なので、いけばな界のしかるべき人に頼むというのが慣例である。私に頼むということは、「自分をいけばな改革者として見送ってほしい」という気持ちだと察して引き受けた。それから間もなくして亡くなったのである。

 葬儀の挨拶では、下田がこだわり続けた2つの事柄、「いけばな改革」と「平和主義」について伝えさせてもらった。平和ぼけの平和ではない。満州事変の2年前に生まれ、多感な時期を戦時下で暮らした人の懸命な願いである。「日本が犯した過ちを忘れるな」と、生涯一貫して訴え続けた。下田にとって「いけばな改革」と「平和主義」は、一体の事柄だったと思われる。


いけばなの前衛運動、戦前と戦後

 下田を理解してもらうためには、いけばなの前衛運動について知ってもらう必要がある。いけばなにも前衛運動があった。1950年代にピークがあり、その劇的な盛り上がりは世間の注目を浴びた。とりわけ作品形態の大変貌に世間は驚き、その結果、「これが生花だろうか」(注3)とか、いけばなとは「似ても似つかぬ存在」(注4)といった発言が飛び交ったのである。
 原因を作った代表的人物が草月流創始者の勅使河原蒼風(てしがはら・そうふう 1900~79)である。彼によって水を使わない作品、鉄屑や石を用いた作品、さらには金属材だけの作品が登場した(注5)。いけばなは植物、という一般のイメージを裏切ったわけである。もちろん蒼風だけでなく、中山文甫(なかやま・ぶんぽ 1899~1986)、小原豊雲(おはら・ほううん 1908~95) らも競って革新的ないけばなを発表して、前衛いけばな時代が創られていった。

 戦前の前衛運動のことも忘れてはならない。いけばな史的には「新興いけばな」と呼ばれるが、戦後の前衛いけばな運動の祖型と言ってよく、中心人物が重森三玲(しげもり・みれい 1896~1975)である。今日では作庭家・庭園研究者として有名なのだが、いけばなの批評家・研究者でもあり、戦前の前衛運動の強力な推進役であった。
 1933(昭和8)年頃のことだが、中山文甫や勅使河原蒼風らに働きかけて「日本新興いけばな協会」の結成を図った(注6)。しかし挫折。日本は本格的な戦争に向かいつつあった時代であり、挫折から立ち直れないまま、戦時下体制に巻き込まれていった。
 戦後、未発表の幻の「新興いけばな宣言」があったことを三玲が明かし、彼の手元に残されていた草稿を公表した(注7)。そこでは「型」を否定したばかりか、「植物は最も重要なる素材であるのみ」と表明することで、非植物素材の使用を公然と認めた。当時としては破格の過激さである。また、いけばなに付着していた伝統的な観念である宗教性や道徳性を否定して、いけばなは「何よりこれは芸術である」と宣言した。戦後の前衛いけばなを先取りする内容だったのである。

(注3)河北倫明「これが生花だろうか」『朝日新聞』1953年10月17日
(注4)青地晨「好敵手物語第6回」『中央公論』1953年6月号
(注5)植物を使わない作品などを蒼風は「新造形」と呼んだが、「いけばな」か「彫刻」かの議論は混乱し、今日に至っている。私の分析や見解は自著『前衛いけばなの時代』にまとめたので、そちらを参照していただきたい。
(注6)協会の予定メンバーは、ほとんどが関西で、三玲、いけばな評論家の藤井好文、実作者の文甫、桑原宗慶(専渓)、柳本重甫、そして東京から蒼風の6名だった。
(注7)重森三玲「花道今昔ものがたり」『いけばな芸術』1951年3月号。


前衛いけばな、3つの潮流

 蒼風がいけばなの大冒険に取り組み始めた1950年、彼はある座談会で「私の今やっていることは、昭和8年頃の続き」(注8)と発言している。昭和8年、すなわち1933年は、初個展開催とともに新興いけばなの人たちとの交流を果たした輝ける年だった。戦後の蒼風の前衛いけばなは、挫折した新興いけばな運動のリベンジだったと見ることも可能である。
 戦後のいけばな界では、先述したとおり、蒼風や文甫たち、そして少し若い小原豊雲などが加わり、主に造形面での革新を果たした。史上もっとも造形性の強いいけばなを創出したのである。そのため、これらのいけばなを「造形いけばな」と呼ぶ人もいる。ただし、それは誤りではないにしても、不十分である。

 造形いけばなの担い手は家元や大幹部の人たちが多く、良くも悪くも、門下を巻き込む。そして、多くの亜流や大量の模倣作品を生み出しながら大きなうねりとなった。だからこそ世間の注目を浴びたのである。「いけばな界に異変」といった受け止められ方だった。これが第1の潮流で、さらに第2の潮流がある。少数ながらも上質の潮流であり、そのリーダーは新興いけばなの中心人物であった重森三玲である。ここにもう一つのリベンジがあった。
 三玲は蒼風らと方向性の一部を共有しながらも、私塾「白東社(びゃくとうしゃ)」で独自のいけばな研究と戦前には手がつけられなかった流派制度の解体を提起する。実際に、その指導下にあった半田唄子(はんだ・うたこ 1907~84)は家元を返上し、中川幸夫(なかがわ・ゆきお 1918~2012)は池坊を脱会する。二人はのちに夫婦となっていけばな改革に邁進した。詳しくは自著『前衛いけばなの時代』や『日本女性新聞』に連載した「女たちのいけばな」(注9)を参照していただきたい。 

(注8)座談会「華道芸術への課題」『いけばな芸術』第13号、1950年12月
(注9)三頭谷鷹史「女たちのいけばな」は、『日本女性新聞』に2015年1月~18年3月連載(全55回)。ジェンダー視点を加えて再検証した近現代いけばな史。一般には入手がむずかしい新聞なので、その一部をこのブログに掲載するつもりである。


第3の潮流、新世代集団

 第3の潮流がある。それが下田尚利らの前衛運動であり、1951年に工藤昌伸(くどう・まさのぶ 1924~96)、重森弘淹(しげもり・こうえん 1926~92)、勅使河原宏(てしがはら・ひろし 1927~2001)、下田尚利の4人で「新世代集団」を結成。当時全員が20代だった。名字からわかるように、弘淹は三玲の、宏は蒼風の子息であり、工藤昌伸は小原流内の名家の子息。下田は大和花道家元の下田天映の子息。彼らと交流のあった美術評論家の水沢澄夫から「二世集団」とやじられたとおり(注10)、超エリート集団であった。
 なお、弘淹は実作者ではない。重森三玲が創刊した『いけばな芸術』(注11)の編集を担い、この雑誌を新世代集団の活動基盤としても、おおいに活用した。彼らは第一の潮流の近くにいたし、第二の潮流とも重なるところがある。ただし、彼らは若かった。新しい時代の空気を目一杯吸っていて、異なる意識を育んでいた。
 メンバー4人は、出会った頃から左翼的傾向があった。下田は私との対談「倒けつ転びつの道行」(注12、以降『道行』)で、こう語っている。4人が「新宿三越裏の喫茶店で会ったのが新世代集団の始まりでした。とにかくみんなで勉強していこう、何を勉強したらいいのかという議論の末に、やっぱり『資本論』だろう(笑)となった」。笑い話として語られているが、当時の彼らの若さと方向性を示唆している。
 新世代集団は、社会に目を向ける「テーマ性いけばな」を展開し、展覧会を開催しているが、それよりも批評活動の方が目立つ。しかし、前衛運動の退潮によって『いけばな芸術』は1955年に廃刊、新世代集団も事実上の解散に向かう。

左は『いけばな芸術』1952年5月号、表紙作品は工藤昌伸
右は同誌同年8月号、表紙作品は勅使河原宏


 その後のことを下田はこう回想している。「『いけばな芸術』誌を失った重森は、食わなきゃならないから、写真批評に力を入れ、数年後には写真専門学校をつくる。宏は映画にのめり込む、昌伸は小原流に居にくくなる」(「道行」)。下田も、親との確執もあり、家を出て、写真の仕事をへて広告制作会社を起業する。私との別の対談では「みんな、もうバラバラで、夢も希望も((笑)」(注13)と語っている。完全な挫折であった。結局、それぞれの道を歩むことになる。
 ただ、その後を見ると、各自が各自の実りを獲得していて興味深い。なるほど彼らは「二世集団」とからかわれたわけだが、七光りで終わった人はいない。勅使河原は映画で実力を発揮し、重森は写真界の重要人物となった。工藤は、いけばな界に復帰したのち、いけばなの批評家・研究者として欠かせない人になった。下田は会社社長である。そして、そんな成功を獲得しながらも、全員が、それぞれの立場で、1970年代以降の現代いけばなの潮流にコミットすることになる。彼らのいけばなに対する「愛」と「縁」の深さを思わずにはおられない。

(注10)工藤昌伸『日本いけばな文化史4』同朋舎出版1994年。
(注11)『いけばな芸術』 1949年12月に創刊された月刊誌、重森三玲が主宰する形であったが、編集は次男の重森弘淹が担った。いけばなを芸術として向上させるため、公正なジャーナリズムの実現を目指し、家元制度を擁護しないとした。美術評論家の水沢澄夫や写真家の土門拳などが深く関わり、協力した。三玲が無名の中川幸夫を進歩派のスターに押し上げたのもこの雑誌である。いけばな界の抵抗によって55年8月号をもって廃刊した。
(注12)『いけばなと私 下田尚利』求龍堂、2016年。下田のいけばな作品と下田の執筆した批評文、私との対談などを収録。
(注13) 前掲の『複眼的美術論 前衛いけばなの時代』所収の対談。


家元の肩書、父と子

 優れた人材が結集した新世代集団だが、メンバーにはそれぞれの素質、生育過程、立場、等々がある。そうしたことを踏まえながら、あらためて下田尚利を見ていこう。重要な点を少し掘り下げて語りたいのである。その一つが親子関係で、その検証はのちの下田の家元継承問題にもつながり、いけばな界独特の体質の理解にも役立つように思われる。
 彼が家を出たのは「親との確執もあり」と記したが、当時のいけばなの方向性に対する認識の差や流内事情によるもので、父親の天映と仲が悪かったわけではない。のちに和解しているし、むしろ仲の良い父子だった。対談「道行」で父親についてずいぶん聞いたが、その内容と語り口は、敬愛の感情に満ちていたのである。

 下田天映(しもだ・てんえい 1900〜83)は、埼玉の農業と園芸を営む家に生まれた。高等小学校を出た天映は、しばらく家業の手伝いをしていたが、建築家になろうと、苦学覚悟で東京に出て、大正7(1918)年に中央工学校に入学。住み込みで働きながら夜学で勉強し、信用をえて学校の庶務主任となり、経営に関わったり、製図の講師をしたりしていたという。
 では、そのまま建築家になったかというと、そうではなく、方向転換があって、昭和3(1928)年に、いけばな、裁縫、茶道などを教える「女子技芸塾」を開校している。工学校入学からたった10年で自分の学校をつくったことになる。当時の写真を見ると、立派な校舎が写っている。

 下田天映が創立した「女子技芸塾」             中央が天映    


 天映は自分を「女子技芸塾」塾長と呼び、塾では異なる流派のいけばなを一緒に教えようとしたが、いけばな界はそれを許さなかった。結局、自分が家元になって「大和華道」を創流して教えることにしたようである。しかし、戦後になっても、ある文書に「大和花道代表者」と書いている。「家元とは言いたくないんだね。おそらく学校にしたかったんだと思う」(「道行」)と、下田は推測している。
 家元継承問題はのちに触れるとして、早くから「家元」「流派」に抵抗感があった下田にとって、父親のこうした気持ち、生き方は、救いを与えるものだったのではないか。「家元の肩書きは居心地が悪い」という彼の口癖は、親子二代のものだったのである。


(最後の前衛いけばな人、下田尚利 ① おわり)


⇐  最後の前衛いけばな人、下田尚利 ②


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