中西伊之助物語 「伊之助と母」⑦ 中西伊之助研究会幹事 水谷修
東京の伊之助 その1
伊之助
対馬から東京へ
伊之助が対馬をはなれ、海軍兵学校に入る目的で、東京に出たのが1905年、満18歳の2月である。
1907年、20歳で徴兵検査をうけ、工兵第一六大隊に入営するまでの約二年間、東京にいた。
この2年間に、中学で学びながら、その間に、新聞配達夫や車夫をし、日比谷焼打ちに参加し、社会党大会に参加するなど社会主義の感化をうけた。この東京での2年間に、伊之助の社会運動家としての素地ができあがったのだろう。
伊之助、
日比谷焼打事件に
加わる。
日露戦争の戦勝国、日本に対するロシアの賠償金支払い義務を認めなかったポーツマス条約への不満から、1905年9月5日、東京日比谷公園の集会をきっかけに暴動が起こった。「日比谷焼打事件」である。
伊之助は「夢多き頃」で次のように述懐している。
「私は國民新聞襲撃をやつて、盛に巡査と格闘した。拔劔の巡査に追はれて、四谷までにげてきて、四谷警察署で一晩置かれた。」
翌朝、釈放されたのちも暴れまわったようだ。報知新聞に「警察権の濫用は亡國だ!」と演説したことを「一學生が叫んだ」と報道され、その新聞を得意になって母親に送っている。
伊之助は「しかし、私が放火したのでないから断つておく」と書いている。
伊之助、社会主義へ
東京にでるまでの伊之助は、海軍兵学校をめざす「忠君愛国主義」者であり、「熱心なクリスチャン」であった。
対馬で、石崎夫妻から、東京京橋教会の田村牧師への添状をもらっている。ところが、京橋の田村牧師を訪ねていないようだ。
伊之助は、日本では働きながら勉強できないと考え、渡米しようと考えた。「夢多き頃」には「十九の冬、渡米に便宜を與へてくれる神田教會の島貫兵太夫氏から洗禮を受けた。」と書いている。
伊之助は、雑誌『光』を買い、社会主義に感銘した。また『新紀元』を読み、神田教会でキリスト教社会主義の演説も聴いた。堺利彦、幸徳秋水が発行した『社会主義研究』での翻訳「空想的社会主義から科学的社会主義へ(エンゲルス)」も読んだのだろう。
「二十一まで、事実、新聞賣、おでん屋、何でもやつた。却々勉強ができなかつた。それに憤慨して、社會主義を信ずるやうになつた。」と述べている。
中西釣月の雅号で
『日刊平民新聞』
に投稿
1907年に堺利彦らが創刊した『日刊平民新聞』に、伊之助の投稿が「中西釣月」の雅号で6回掲載されている。
「あゝ御真影を抱いて焼死! 吾人は痛恨の涙に堪へず多言する要なし只速かに各学校の御真影を返上せよ」とある。
「釣月」とは伊之助の生まれ育った槇島の地名である。槇島にあった「釣月」庵は、伏見の指月、宇治の蔵勝庵とともに洛南三勝の一つとされる観月の名所だった。しかし、その位置は定かでない。宇治市槇島町にある「誓澄寺」の山号は「釣月山」である。
伊之助は、望郷のおもいから「釣月」というペンネームを使ったのだろう。
伊之助、
社会党大会に
参加する。
伊之助は「夢多き頃」に神田錦輝館での日本社会党大会に参加したことを書いている。1907年2月17日、日本社会党第2回大会が、神田錦輝館で開かれれている。伊之助はこの大会に参加したのだろう。
「みんな人生の荒濤の中で苦労した社會主義者ばかりであつた」「銀鈴を振るやうな秋水の雄辯は今も忘れない」とし、片山潜、堺利彦、山崎今朝彌、荒畑寒村、山川均らの苦労人にたいし「甚深の敬意を捧げる」と書いている。
また、「人類解放運動者は、その主義よりも、その人格である。」と書いている。伊之助が終生一貫した「社会運動家」観であろう。
(つづく)
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