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中西伊之助物語 「伊之助と母」④ 中西伊之助研究会幹事 水谷修
伊之助、母を訪ねて
伊万里へ
伊之助と母ータネの連絡がどのようになされていたのか不明だが、絶えず音信があったのだろう。
江戸時代、佐賀藩は幕府から長崎警護の任を命じられていたため、軍港だった伊万里津と楠久津に「御船屋」という役所を設けるなどの整備をした。
最愛の息子ー伊之助と別れ、タネが「嫁い」だ楠久津には城もあった。軍船にのる「御船手」や、軍船を作り修理する船大工も多く住んでいたらしい。楠久津には「花街」もあった。
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明治政府が、ロシアと日本海で対峙するためにとった、最大の戦略が、対馬を強化し対馬海峡(対馬〜朝鮮)を押さえることでロシアの三つの艦隊を分断することにあった。そのため、対馬に人と金が投入されたのだった。
1871(明治4)年には佐賀県と厳原県(対馬)が合併し伊万里県ができて、伊万里が県庁所在地になった。対馬はもちろん、伊万里津や楠久津が軍港として栄えた。そして多くの人々が、伊万里から、対馬へ、そして、朝鮮半島へ渡っていたに違いない。
「景気のよかった楠久津」のタネが、伊之助を呼び寄せた。伊之助は母を訪ねて伊万里にやってきたのだと、筆者は推察する。
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タネと賢海寺
筆者は2007年、楠久津にタネの足跡を訪ねた。
1899(明治32)年、地元の有力者が力をあわせて伊万里鉄道を開業した。いまの松浦鉄道である。
単線で1両だけの列車に乗り、伊万里駅から松浦鉄道を三駅行くと「くすく駅」だ。丁度その時は、田植えの準備のすすむ田や畑、早朝の光に輝く青葉の森の光景に、しばし心が和んだ。ここちよい鉄道の旅であった。
くすく駅をおり、港の方角に500メートルも歩けば「くすく保育園」が目にはいった。賢海寺が経営する保育園である。朝の七時過ぎであるのに住職(園長)が会ってくださった。
タネの「嫁い」だ「楠久津一一九番地」について訪ねた。住職は「一一九番地は、賢海寺の敷地内にある」「経緯は知らない」「明治の時代に『福田常吉』の家があったかどうかはわからない」とのことだった。筆者は境内の墓地を探したが、該当の福田常吉やタネの墓もなかった。
「賢海寺」は「げんかいじ」と読むこともわかった。
賢海寺付近に福田鮮魚店ほか福田姓の家が6軒あった。近所は福田だらけであった。うち2軒を訪問した。楠久津出身の福田姓の薬局経営者も訪問もした。いずれも該当の「福田」はなかった。明治の時代に朝鮮や中国に渡った「福田」が故郷に帰ってきてはいなかったであろうし、一族との音信がなくなっているのは、想定の範囲内だった。
私には「大収穫」であった。西海山賢海寺(浄土宗)の隣(中かも?)に楠久津119番地があったのだ。賢海寺とタネは隣どうしだったのだ。伊之助も一時期、賢海寺にいたのだったにちがいない。
賢海寺と
「賢海はん」と耕石庵
伊之助の生家(槇島)の隣が「耕石庵」であり、小説『農夫喜兵衛の死』にでてくる「寂光庵」であること、この「耕石庵」に伊之助がよく詣で、伊之助の宗教観の基礎となったことは前に書いた。
耕石庵の長澤荷月が1854(安政元)年から1872(明治5)年まで寺小屋を開業しており、のちに宇治郷小学校の教員をしている。ちなみに1882(明治15)年に槇島小学校が開設された場所は耕石庵の門前である。
耕石庵当主の長澤正樹氏は「祖父が長澤見城で、その弟である坪井宗立が『賢海はん』でしょう」と推察している。
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小説中の「寂光庵」の若い僧侶の名前が「賢海はん」である。この「賢海」という名前こそ、母が嫁ぎ、伊之助が母を訪ねてはるばるやって来た、楠久津の家だった場所なのだ。
伊之助、
戦火の対馬竹敷へ
楠久津にやってきた伊之助は、継父との軋轢もあったのではないだろうか。
伊之助の文壇デビュー作である『赭土に芽ぐむもの』(改造社、一九二二年)で、主人公(槇島)と継父との軋轢と心の動きを克明に書いている。この小説は、朝鮮での自身の体験だ。楠久津での継父一家との生活は長続きしなかったであろう。
伊之助は、17才で佐世保海軍工廠竹敷修理工場の仕上工見習になっている。おそらく、伊之助の好奇心と青年らしい正義感から、そして、母親から自立するために、さらに、お金を稼ぐために、対馬に渡ったのであろう。
(つづく)