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山宣の「当選」の原動力を考える  【民衆運動と組織が大きな力】

 遡ること100年。絶対主義的天皇制の圧政に抗して、民衆が労働運動、農民運動、選挙権獲得などへ立ち上がる中、1922年7月15日、日本共産党が創立された。しかし日本共産党は、創立の時から大日本帝国憲法第29条及び治安警察法によって非公然活動を余儀なくされ、権力の激しい弾圧を受けた。

 日本共産党にとって、事実上最初の全国的選挙が1928年2月20日投票の「第1回普通選挙(第16回衆議院議員総選挙)」であった。非公然を余儀なくされた日本共産党は、労働農民党の中で選挙戦を闘った。
 それまでの選挙は制限選挙で「直接国税3円以上納税の満25歳以上の男性」に限られていたがゆえに、ほとんどの無産政党の党員・支援者は投票さえできなかった。「普通選挙」といえども第1回普通選挙での有権者は「満25歳以上の男性」に限られたもので女性参政権はなかった。その選挙で山本宣治が当選した。その原動力は何だったのか、検討してみよう。郷土の先人で民衆の希望だった山本宣治を、尊敬と親しみを込めて、以下「山宣」と書かせていただく。
 民衆は、自らの運動で勝ち取った参政権による最初の「普通選挙」において、無産政党を結党し盛んに闘った。無産政党合計で48万6502票の得票、8議席を獲得したのだった。非合法の日本共産党員も加わった労働農民党は40名の候補者を擁立したが、京都1区の水谷長三郎と京都2区の山宣の当選にとどまった。
 無産政党各党は「選挙協定」を一旦成立させたが、結局「協定」は崩壊した。官憲の妨害や買収選挙横行の中、無産政党は農村部では多くの得票を得ることができなかった。唯一、京都二区の山宣が農村部でも多くの得票を得ることができた。その要因を解きたい。
労働農民党の中心スローガンは、
一、労働者に仕事と食を与えよ! 
二、働く農民に土地を保障せよ! 
三、すべての人民に自由を与えよ! 
四、田中反動政治を倒せ! 
 田中義一内閣は、普通選挙により無産政党を合法化した一方で、総選挙翌年の1928年3月15日、治安維持法により日本共産党を大弾圧した。いわゆる3・15事件である。以降の連続する弾圧によって日本共産党は壊滅的になり、公然と国民の前で選挙戦を闘うには、アジア・太平洋戦争終戦を待たなければならなかった。
 山宣は、日本共産党が推薦した唯一の当選者であった。山宣の選挙結果を分析することを通じて「日本共産党の100年」を考えてみたい。


山宣の得票結果とその特徴

 京都二区(定数3)の得票は、川崎安之助(立憲民政党)21.907票、磯部清吉(立憲政友党)14.974票、山本宣治(労働農民党)14.412票、長田桃蔵(立憲政友党)12.151票、平原光親2,181票、奥村治郎709票であった。添付の開票結果は「衆議院議員総選挙一覧 第16回(衆議院事務局編)※注1」による。
 奈良鉄道(奈良電)創設の中心人物で専務取締役、衆議院3期当選の現職長田桃蔵が優勢で、山宣とは京都南部で地盤的に競合すると見られていたが、その有力候補長田を大きく追い抜き、山宣が当選を掴んだ。
 労働農民党から立候補するまでの山本宣治は、生物学者としての学究にとどまらず、生活苦に喘ぐ農民や労働者の懐深く入り、「産児制限運動」や労働学校の活動を広げていた。城南小作争議にも積極的な支援活動をしていた。こうしたことが農山村での大きな支持を得る礎になっていたのだった。

郡ごとに得票結果

 郡ごとに得票結果を分析してみよう。

愛宕郡は、川崎1.809、磯部1,043、山本174、長田220で川崎と磯部の2人が抜けている。

葛野郡は、川崎2,219、磯部2,061、山本1,672、長田105で、山本が得票率26.8%と健闘している。太秦村、川岡村、梅津村、佐賀村で山本がトップの得票を獲得したことが大きい。

乙訓郡は、川崎2,422、磯部14、山本802、長田1,085で川崎が抜けたが、山本、長田が接戦となった。

紀伊郡は、川崎6.440、磯部48、山本2,105、長田1,749で川崎が抜けたが、地元候補でもある長田を山本が上回り2位の得票を得た。

宇治郡は、川崎1,547、磯部36、山本749、長田961で川崎が抜けた。宇治村で山本が長田を越え、郡全体で両者が接戦となった。

久世郡は、川崎1,271、磯部12、山本1,613、長田1,831で、長田がわずかに抜けたが、山本の久世郡の得票は3分の1を超え、川崎を上回った。とりわけ、花屋敷のある宇治町と城南小作争議のあった佐山村では、山本が過半を超える得票を得た。

綴喜郡は、川崎1,703、磯部29、山本1,575、長田2,648で、地元の長田が抜けた。山本は、小作争議、京都での日農の発祥地=有智郷村で48.4%、城南小作争議を闘った美豆村や都々城村、三山木村、普賢寺でトップ得票を得て、郡全体で川崎に迫った。

相楽郡は、川崎2,426、磯部21、山本1,825、長田3,397で、地元の長田が抜けた。高麗村と瓶原村で山本がトップ得票を得るなど得票を伸ばし川崎を追い上げた。

南桑田郡は、川崎758、磯部3,092、山本2,041、長田48で、地元の磯部が抜けた。山本は、篠村、馬路村、で過半を越し、保津村でトップ得票となるなど、小作争議発祥の地でもある南桑田郡で票を伸ばし、郡の得票は3分の1を超え、磯部に迫った。

北桑田郡は、川崎183、磯部3,491、山本250、長田39で、地元の磯部が抜けた。山本は2位の得票で健闘した。

船井郡は、川崎1,129、磯部5,125、山本1,606、長田68で、地元の磯部が抜けた。山本は八木町でトップ得票を得るなど健闘し、郡内2位だった。

第一回普通選挙開票結果1
第1回普通選挙開票結果2
第1回普通選挙開票結果3


山宣当選の原動力は何だったのか

 松方デフレによって多くの中農も農地を奪われ没落していくと同時に、大方の農地が寄生的地主に集積されていくことになる。
 第一次世界大戦が勃発し、米価が暴落し、小作農の地主への怒りが沸点に達し、富山県魚津の「越中女房一揆」を皮切りに全国の米騒動として広がった。京都では、1919年8月10日、京都市柳原町(崇仁)の米騒動を皮切りに、11日紀伊郡伏見町・竹田村・上鳥羽村、乙訓郡久世村、綴喜郡八幡村。13日加佐郡余部町・新舞鶴町。14日相楽郡上狛村。15日相楽郡笠置村、18日乙訓郡大枝村、21日乙訓郡大原野村と京都府内の米騒動は燎原の火の如く広がっていった。米騒動で学んだ団結の必要性は、その後の小作争議や労働運動など民衆運動に発展する礎となった。


宇治市・久御山町で得票第1位、地元宇治町での圧勝


 現在の宇治市・久御山町での山宣の得票はどうだったか。
 宇治町602票(52.3%)、槇島村82票(33.2%)、宇治村312票(31.7%)、大久保村91票(26.8%)などで、現在の宇治市域での得票は1160票(36.5%)で第1位の得票。佐山村319票(58.4%)で、現在の久御山町での得票は481票(46.3%)で第1位の得票だった。
 当時の選挙は、官憲の妨害がひどかった。演説会会場に臨監(警察官)が立会い、「弁士中止」はもちろん、弁士退場も逮捕もできた時代だった。
 投票日前々日の莵道小学校の山本宣治演説会では応援弁士22人全員が中止を命じられ、そのほとんどが逮捕され弁士もいなくなったほどだった。
 宇治町で山宣が大量得票できたのは、有名旅館花屋敷の主人で、莵道小学校卒業生(1899年卒)であり、生物学者であったこと、さらに人柄も大きかったが、民衆の小作争議や無産運動など闘いが勝利の原動力だっただろう。
 宇治町で1921年、小作争議が起きた。「かねて町内の小作農百数十名は農事奨励を看板に実行組合を組織していたが、十月、地主に対し年貢米四割減を要求した。山本町長は調停に奔走し、十一月半ば頃二割減で妥結(宇治市史4巻362頁)」というものだった。
 こうした農民運動のなかで22年11月、日本農民組合(日農)の支部が綴喜郡で組織されると急速に府内に広がり、25年には府内4000名を超える組織になった。京都南部で綴喜986人、相楽660人、久世964人と多くの組合員を擁したのだった。

 「久世郡では、1923年11月に御牧・佐山・久津川・寺田・土庄の5支部で構成される日本農民組合久世連合会が結成され、佐山村の坂本兵蔵が会長に就任した。そして26年2月に上部機関である日本農民組合京都府連合会は、滋賀県連合会と合併して京滋連合会となり、執行委員長に坂本兵蔵が就任した。一方、これに対して南山城の地主は大日本地主協会に加入し、日本農民組合京滋連合会と対抗するようになった。やがてこの半目は、26年の城南小作争議に発展することになる。城南小作争議と呼ばれる佐山村、御牧村、綴喜郡美豆村を中心とする争議は、25年佐山村(字市田)、美豆村(字際目)両村の小作人が凶作を理由に小作料五割減を要求したもので、大半は三割五分で妥結した。ところが、数名の地主がこの要求を全面的に否定したため、26年6月に争議が大きくなり、地主側の田植えを保護していた警察官と衝突し多くの検挙者を出すに至った。」(『久御山町史』第二巻7〜8頁)

 26年、歴史的大勝利をおさめた城南争議が起きた。
 「26年6月30日、1500人の組合員は美豆、佐山両村におしかけ、百数十人の警官隊と乱闘のあげく地主側の田植え強行を阻止した。この結果、組合側は30数名が検挙され、うち24名が起訴された。この弾圧にあっても農民の結束は崩れず、結局10月になって、25年度の小作料3割3分減、以後5年間2割減。立入禁止田は全部小作人に返すという農民側に圧倒的に有利な条件で解決をみた。(宇治市史4巻363〜364頁)」のだった。
 この城南争議の勝利が先駆けとなり「耕作権」確立を求める農民運動が全国に広がった。
 最終的な争議の妥結の結果は、添付の27年『御牧村小作調停書』(袖岡吉次家文書)として残されている。この調停書にみられるように小作争議以降、排水費が全額地主負担となり小作人の負担軽減が勝ち取られたのだった。

袖岡家文書1
袖岡家文書2

 日本農民組合(日農)が1922年発足したが、「日本農民組合発足後まもなく河内の私市で講演会が開かれ、草内村からも出席、それに入会した。その後草内村の小作者80人は集会を開いて、日本農民組合草内支部を発足させ。同時に三山木・普賢寺・田辺にも支部の結成をみたのである。(『京都府田辺町史』673〜674頁)
 こうした無産者、農民の運動が広がる中で、山宣の勝利があった。


南桑田郡で3割超の得票で山宣当選の原動力


 山宣は南桑田郡(現在のほぼ亀岡市域)で33.4%の得票を得た。この得票の原動力となったのは、南桑田郡の農民運動の高揚だった。

 1919年10月28日、亀岡座(亀岡町安町)で約800人が集まり、南桑田郡小作人大会が開かれた。友愛会理事の高山義三(のちの京都市長)に馬路村の中村丑之助が相談して、農民団体結成の準備会として開いたものだった。この大会を契機にし、小作人団体の連合組織である「丹波小作人同盟会」が結成された。その後一週間で500人が会員になったと伝えられている。
 馬路小作会(会長中村丑之助)は村内233人を結集して創立された。
 京都府内最初の本格的小作人争議は1918年の馬路村で起きた。
 馬路村は小作率が83%と異常に高く、村外不在地主が4割にも達していた。「1919年度争議では、馬路小作会は生産向上のために地主拠出金を地主側に要求した。村長、助役、地主、小作会の合議の末、地主側より拠出金支弁で解決した。その後、1922年度からは本格的な小作料減免争議が始まる。馬路小作組合は1922年1月馬路村小作組合(組合長畑与三郎)に改称し、同年4月に創立された小作組合の全国組織である日本農民組合(日農)に加入した。」(「大阪朝日新聞」20年1月18日付け)

1923年9月には、18支部900名で日農南桑田連合会(会長畑与三郎)が結成された。
 南桑田郡では26年から35年の9年間に127年の小作争議が起きた。小作争議の激甚地域だったのだ。(以上、『新修亀岡市史』参照)
 こうした運動の経験、日農の組織化が、山宣の得票の原動力になったであろう。




山宣の選挙勝利に学ぶべきこと

 山宣の選挙勝利に学ぶべきことは「民衆の運動」と「組織」ではなかろうか。
 創立100年の日本共産党は選挙での得票を後退させた。要求を軸にした運動、悪政に抗する闘い、そして党を太く大きく前進させることが必要だろう。

V NARÓD



※注1 本稿資料として、衆議院議員総選挙一覧 第16回(衆議院事務局編)を用いた。佐々木敏二氏らの先行研究や宇治市史などと票数に違いがある。本稿で用いた資料が一次資料として確かだと考えるが、誤差の要因は今後の研究に委ねたい。
※注2 市史や町史などを引用するにあたり、本稿では、年号は西暦に読み替えて記述している。
※注3 本稿は書きかけの作文であり、書きかけ状態で公開する。ご意見もいただき、修正し完成させたい。




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