中西伊之助物語 「伊之助と母」⑥ 中西伊之助研究会幹事 水谷修
伊之助
廃娼運動に
立ち上がる。
バイタリティあふれる伊之助は、対馬で廃娼運動に立ち上がっていた。
伊之助は『我が宗教観』に次のように書いている。
「そこへ、反對に、大問題が起つた。それは、この町に、今までなかつた、遊郭が置かれると云ふことであつた。私たちは驚いた。ーー神の王國である教會は容易に建設されなくなつて、却つて『悪魔の王國』が建設されるのである!
私たちは、起つた。石崎夫婦と共に、そこの警察署へ不許可の指令を興へてくれと云ふ請願書を出した。」
「遊郭は、山手一帯の高燥な地に、皮肉にも宏壯な建物となつて現はれた。そして、私たちの教會は、いつ建つとも思はれなかつた。人間は、『神の王國』より『悪魔の王國』を好むものだと云ふ、最も平凡な眞理を、私は、十七歳の少年時代に、はじめて、はつきりと感銘した。」
伊之助は「最も初期の、廃娼運動家」だっだ。
伊之助は、娼婦の問題、売られていく女性の問題など、するどく本質にせまる作品を多く書いている。
交易の要衝であり、豊かな漁場をもつ対馬には、その後も多くの娼館があったことを、案内してくださった武本哲勇(対馬市議会議員)氏から聞いた。(2006年8月)
伊之助の初恋
伊之助の初恋は対馬であったと筆者は推理する。
「夢多き頃」に「人並に戀があつた。」として次のように書いている。
「職長の娘に、私と七つ下の子がゐた。私の十七八の頃から彼女の母は、私にその娘をくれると云ふやうなことを云つてゐた。踊りなども教へてゐたし、姿も人形のやうに美しかつた。私はいつかその娘を思ふようになつた。
十九の時、東京へたつたが、彼女は十二の『女らしさ』の仄見える娘であつた。それから私は五六年間、彼女と手紙の往復をしてゐるうちに、二人は語らずして結婚することに定めてしまつた。」
「彼女が十八になつた頃、お互の親の間に結婚談がとり交された。彼女と私の双方の熱心な運動の結果だつた。私はその頃新聞記者だつた。」
だが、母タネの嫁いだ先の義父に反対されて破談になってしまう。
その後、彼女は銀行家と結婚し、台湾銀行支店長夫人になるのであった。
伊之助初恋の地はどこか。
「私の十七八の頃」とある。また一九歳で東京にたつ前に働いていた工場、であるのだから対馬である。伊之助の初恋の舞台は、おそらく対馬だったのだろう。
母の愛につつまれて
伊之助、東京へ
「愛讀者への履歴書」に「日露戦役の労に依り、一金三十圓下賜」されたと書いている。旅順陥落の祝賀ムードのなか、ボーナスが出されたのだろう。
また「夢多き頃」では「十九の二月、百圓の貯金をもって東京へ出てきた」としている。
旅順陥落のボーナスと、それまでの貯金をあわせて100円にしたとも、考えられるが、わずか一年の労働では困難ではなかろうか。この差額の多くは母親が用立てしたのではないか、と筆者は推察する。
『赭土を芽ぐむもの』ではこんなくだりがある。
「彼がTへ立つ時、母は涙を流して、『勉強してえらい人になっておくれ・・』と彼を励ました。」とある。
ここでの「彼」は主人公「槇島」で伊之助自身のことである。また「T」は「東京」のことである。対馬から東京へ向かう途中、楠久津で、伊之助にタネがかけた言葉であろう。
伊之助は海軍兵学校に入学するために、その海軍兵学校入学のために大成中学を受験する目的で東京に出たのであった。
伊之助と母が写っている一葉の写真がある。その時の写真だろう。撮影場所は楠久津(現・伊万里市)であろうと筆者は考える。
この写真には判読しにくいが「明治三十八年」「四十一才」とメモされている。大成中学を受験するのが三月なので、撮影は1905(明治38)年2月末か3月始めだ。母ータネが満40歳、伊之助が満18歳。誕生日(2月8日)以前の撮影ならば17歳だったかもしれない。
(つづく)