JAL516便事故で、炎上する機体から脱出した話
noteの更新を放置していた間に、表題の件が起こった。で、さらにぼんやりしていたら、事故発生から3ヶ月も経ってしまった。早すぎるよ流れ。時の。
noteの更新をサボっていたのは単なる怠慢なんだけれど、JALの件については気持ち的にもようやくひと区切りついた気がするので、稀有な経験の記録として書き留めておこうと思った次第。自分の記憶力に自信もないし。
いつも通り羽田に着いたはずだった
1月2日、新千歳空港15:50発。正月の帰省から東京へ一人で戻るところだった。飛行機に乗るときは、少し早めに空港へ行ってのんびり過ごすことが多い。その日も定刻の1時間半前には空港にいて、お土産を物色したり知り合いに新年のご挨拶LINEを送ったりしていた。「また、ご飯でも行きましょう!」それが、最後に残した言葉だった。とかならなくて本当に良かった。
JAL516便は新千歳空港を出発し、何の不安もないフライトで、羽田空港に着いた。はずだった。その瞬間まで。
私が座っていたのは機体ちょい後方の51H。3席ある右窓席の通路側である。特に理由はないが、だいたいその辺の席を取るのがいつもの習慣で、その日もそうだった。窓の外を見ると滑走路が見えて、あぁ、東京に戻ってきたんだな、の「な」ぐらいで機体に激しい衝撃が走った。
着陸のタイミングとほぼ同時だった気がするし、着陸時は少なからず衝撃はあるものだ。なので、衝撃の激しさに関してはそれほど異常を感じなかった。おぉ激しい、くらいだったと思う。ただ、窓の向こうでオレンジ色の炎が上がっているのが見えたとき、ようやく思った。え、何これ。
0.0009%のの確率で起きた事故
航空機の事故率は0.0009%と言われているらしい。生身で日常生活を送るよりも飛行機に乗っていたほうが無事じゃないか。それほど安全な環境で事故が起きたとき、瞬時に判断できる人はどれくらいいるんだろう。私は目の前が真っ白になることも、それでいてパニックになることもなく、ただ頭にでっかいハテナを浮かべただけだった。あまりにも想定外すぎて。
今思えば、あそこにいた乗客の多くがそうだったんじゃないかと思う。少なくとも自分の座席周辺の人たちは。それなりにザワザワしていたけれど、騒いだり席を離れたりする人はいなかった。正常性バイアスといえばそうかもしれないけれど。だって誰が0.0009%が起きたと思うよ。その瞬間まで一ミリの危うさも感じることのない、快適な空の旅だったのに。
「落ち着いてください、大丈夫です、席に座って」CAさんは乗客に向かって、繰り返し呼びかけていた。力強く、それでいて安定した声音で。乗客も大人しく従っていた。でも、何度目かの「大丈夫です」を遮って、近くのおじさんが大声で叫んだ。「エンジン燃えてるぞ!!」
その瞬間、一気に緊張感が機内を包み、CAさんの動きが急に忙しなくなった。周囲のザワザワが一層大きくなり、近くの子どもが「開けてください!」と騒ぎ出した。同じ列の窓際席に座っていた大学生くらいの女の子は、よほど怖かったのか過呼吸になってしまった。間に座っていた外国人男性と必死になだめ、励ます。
その時点で、炎はまだ機内に到達していなかったように思う。あくまで外側のエンジンが燃えていただけだったんじゃないかな。ただ、徐々に機内が焦げ臭くなり、煙が充満してきて少し焦りを感じた。その頃には、CAさんの呼びかけが「大丈夫、落ち着いて」から「頭を低くして、口元を覆ってください!」になっていたし。あと、この辺りで機内が停電になったのではなかったか。いや、最初から停電していたかもしれない。私は女の子の手を握りながら、「きっと、大丈夫だから」と言った。たぶん、きっと。
扉が開きません!ダメです!
「開くドア確認してください!」「番号教えて!」といったCAさんの声が聞こえてきた。脱出ルートの確保に動いていたんだろう。非常に切羽詰まってはいたけれど、頼もしい。さすがプロ。そう思った。だから、こちらも速やかに指示に従う心づもりでじっと待機していたのだけど、間髪入れず「扉、開きません!」「○番、ダメです!」と聞こえた時は、さすがに血の気が引いた。扉が開かないなんてことがあるだろうか。ここから出られないの?炎エンジン燃えてるのに?ようやく、少し実感した。もしかしたら、死ぬかもしれない。
事故発生から体感で10分経ったくらい。うっすら絶望しかけた頃に、「前方の扉から脱出してください!」的なことをCAさんが叫んだ。やっと逃げられる!そう思った。この期に及んで棚から荷物を下ろそうとするおばさんがいて、近くにいた男性から「荷物は下ろすな!」「早く行け!」と怒号が飛ぶ。運良く私は、貴重品(スマホ・財布・自宅の鍵・メガネ)が入ったショルダーバッグを首から下げていたので、そのまま前方右側の出口へ向かって口を押さえながら中腰で急いだ。停電した機内は暗く、足元が見えずらい。でも、床にしゃがんだCAさんが懐中電灯を高速で回して、私たちを誘導してくれた。このストロークがとにかく長く感じたのを覚えている。
生まれて初めて脱出シューターを滑る。離陸前に見た安全ビデオで、両腕と両足を前に突き出したコの字の格好で飛び降りると教わったけど、そんな余裕は一切なかった。現実は転がり落ちたというのが正解。しかも、シューターの高さか角度かが足りなかったようで、滑っている途中で止まった。前の人の背中を蹴りながら自力で滑走路に降り立つ。
そこからは、ひたすら前に走った。何しろ爆発が怖い。もっと、もっと、もっと離れないと。ドカンときたら火に飲まれて終わりだ。逃げながら、ちら、と機体を振り返った。エンジンから炎が上がっている。この時点で午後6時過ぎくらいだったろうか。日が落ちた夜の滑走路で、それはあまりに異様な光景に見えた。この事故で最も恐怖した瞬間だった気がする。
走っていたら海に着いた。東京湾。方向を変えてさらに走る。同じく機内から脱出した人たちが溜まっているエリアまで。私は一人で搭乗していて、連れはいない。とりあえず逃げ出すことはできたけれど、何をどうすればいいか分からなかった。
目の前て燃え朽ちていくJAL機
200m位は機体から離れただろうか。「人数を確認するので集まってください」脱出した搭乗者の群れに向かって、CAさんが言った。「10人のグループになって座って」とも。この時点で、自分の身に何が起きているのか、その場にいる誰も知らなかった。着陸と同時にエンジンが燃えて、何か事故ったらしいという雰囲気しか分からない。たまたま側にいた人たちとグループになって滑走路に座り、「一体、何があったんです?」と確認し合う。ある人は「スピードの出し過ぎで地面にぶつかった」、ある人は「何かに掠ったか引っかかった」と言った。みんなちょっとテンションが高かった。
人数を数え出してすぐ、機体から爆発音が上がった。その瞬間、CAさんは私たちに「離れて!」と叫んだ。そこからまた散り散りに走って逃げた。炎上する機体の写真か動画を撮っていた人が、CAさんに撮らないで!と叱られているのを横目で見ながら。
より安全な場所に移動し、あらためて10人グループを作るよう指示された。寒風吹き荒ぶ真冬の滑走路。めちゃくちゃ寒かった。さっきとは違う人たちと輪になって座る。気づけば機体の左側に回り込んでいた。遠くに見える機体。脱出直後に見たときはエンジン部分が燃えている程度だったが、その時には炎が機内を舐めるように燃え広がっていた。手荷物で持ち込んだMacBook、完全に終わったな。そう思った。
機体の火災というものは、業務用の強力な消火剤か化学薬品か何かがあって、すぐに収まるのだろうと軽く考えていた。でも、全然そんなことはなかった。遠くて見えなかっただけかもだけど、消化活動すらしていなかったような気がする。ただただ、激しく炎を上げて燃え朽ちていくJAL機を眺めていた。
何となくスマホを取り出すと、姉から鬼電が入っていた。テレビを見ていてニュース速報が出たらしい。電話を折り返すと、向こうも慌てた様子で「大丈夫!?」と言ってきたので、「全然大丈夫じゃない!手荷物全部燃えたわ!」と答えた。周りも「俺もモンクレールが…」「スマホがない」「ヴィトンが〜」と言い合っている。自虐して少しでも笑いたい気分だったのかもしれない。そして、この電話で自分の乗っていた便が海上保安庁機と衝突、5名の隊員が亡くなっている事実を知る。たった今、自分がいるこの現場で。
事故の当事者であることを自覚する
滑走路から待機場所があるターミナルビルへは、バスで移動した。この時点で午後7時半くらい。バスに乗り込む際も、待機場所にいる間も、とにかくスタッフの人が人数確認を繰り返していたのを覚えている。速報では既に全員脱出、とでていた気がするがどうなんだろう。あとは、体調不良の人がいないかどうかも繰り返し呼びかけていた。
待機場所では、番号札と紙を渡され、連絡先と手荷物の詳細を書くよう促された。必要事項を書き終えて周りを見渡す。『医師』と書かれたゼッケンの人がいた。亀田のあられと水が配られた。疲れて横になっている人がいた。「自分は事故の当事者なのだな」と自覚すると同時に、前日に発生した能登半島地震の被災者に思いを馳せた。
一人だった私と一緒に居てくれた女性がいたのだけど、その人が明るい人でとても助けられた。テレビ局に勤務しているそうで、「会社に動画送ったらテレビに出るかな?」と笑っていた。あられを食べながら「こんな時でも減るんですね、お腹」とか言って、ひたすら番号が呼ばれるのを待つ。そして、呼ばれたあとはターミナルビルの食堂に案内された。
彼女と「やった、夕飯が出る!」と喜んだが、普通にそんなことはなかった。再び紙とペンを配られ、連絡先を記入して渡す。そのそばから搭乗者リスト作成軍団がPCに手入力していた。ご苦労さまです、と思った。急遽お手伝いに呼ばれたと思しき作業服姿のスタッフからおにぎりとクリームパンが配布されたのと、上着がない人にはユニクロのフリースも。私もコートを機内に置いてきたので、1着もらって羽織った。
この時点で、手荷物が戻ってくる可能性は限りなく低かったのだけど、一旦JALからは「追って送付します」との説明があった。まぁ、そう言うしかないだろう。そして、それ以上の詳細は後日、ということで、自力で帰宅できる人はここで解散と言われる。私は最低限の貴重品を身につけていたが、財布やスマホ、カードがない人もいただろうし、そうした人たちはそのまま残ったようだった。一緒にいてくれた女性にお礼を言い、別れる。
お客さん、ツイてるよ
解放されたのは、午後10時ちょっと前くらい。食堂を出たところからエスカレーターを降りたところまで、100人近い報道陣が集まっていた。「ちょっとお話を」「今どんな気持ちですか」カメラとマイクを向けられる。正直、とても驚いた。そんなに大きいニュースになっているのか。疲れてしまって答える気になれず、無言で通り抜けた。
電車を乗り継いで帰宅することもできたけど、早く帰りたくてタクシーを使った。乗り込んだ早々、ドライバーの男性に「ずいぶんと身軽ですね」と言われる。そうでしょう。1月2日にちっさいショルダーバッグ一つで空港から帰るのだからね。「手荷物、全部燃えたんです」と言ったら、ドライバーさんのテンションが爆上がりした。
家に着くまでの間、質問攻撃を受けまくった。ニュースは事故の話題で持ちきりだという。中国訛りの中年男性で、「まさか、あれに乗ってたとはねぇお客さん!」と言って妙にはしゃいでいるのが面白かった。散々話したあとに「お客さん、よく助かったね、ツイてるよ。今年の厄全部落としたね」と言ってくれた。中国訛りで言われると、本場の占い師か何かに言われているようで嬉しい。あなたも運転気をつけて、と言ってタクシーを降りた。
自宅に着いたのは、午後10時50分頃。事故発生から数えて、およそ5時間経っている。どっと疲れた。姉にLINEをして無事を伝え、ほとんど気絶の状態で眠りに落ちた。
これからもJALを利用する
翌日は、JALからの電話で目が覚めた。事故に対する手厚いお詫びに加えて、専用の問い合わせ窓口を開設したお知らせと、補償金を支払う旨の説明を受ける。半分寝ぼけた頭で、「対応早いな、さすがJAL」と思った。
テレビで事故のニュースを目にするたび、ちょっとだけ心拍数が上がった。PTSDというほどでは全然ないけれど、「一歩間違えていたら」とどうしても考えてしまう。乗客の中には体調不良を訴えた人もいたようだが、幸い私はそれもなく、怪我も負っていない。だけど、機体全体が炎で包まれている映像や、全焼した機体の残骸写真を見ると、あの日滑走路で見た炎上するエンジンの映像が脳裏を掠める。自覚している以上に怖かったのかもしれないな。
インタビューを受けている乗客の様子もちらほら見かけたが、私が待機場所で一緒にいた女性も思いっきり顔出しで映っていて笑ってしまった。「テレビ局関係者」のテロップ付きで、結構な尺をとっている。背景も現場じゃなくてオフィスっぽい。出勤して撮影したのかな。念願叶いましたね。最高。
後になって知ったことだけど、あの日、飛行機に搭乗していたCAさん9名のうち、約半数が入社1年未満の新人CAだったそうだ。日頃の訓練とはすごいものだね。よくあの状況下で業務をこなしたよ。しかも満点のかたちで。私たち乗客がパニックになることなく、冷静に避難できたのは、紛れもなくJALスタッフの皆さんの功績と言える。
あれ以来、飛行機に乗る機会はまだない。けれど、JALを使うかと言われたら、普通に使うと思う。この事故によって亡くなられた方がいる中で、こんなことを言うのは相応しくないかもしれない。それでもやっぱり、JALには感謝しかない。ありがとう。