
合わせ鏡のリバー・フェニックス
8月23日は今でも特別だ。
何をするわけではないが、ひとり心の中で彼の誕生日を祝う。
Happy Birthday to you 50歳おめでとう。
初めて彼をスクリーンで見たとき、私の人生は一変した。あれから好きなアイドルはリバー・フェニックス唯一人。
彼の周りだけ空気が違う。プリズムのような虹色の光が見えた。
笑いたければ笑うがいい。だって私は見てしまったのだから。
どんな役で出演しても、不穏な噂を聞いても、彼の写真、映像に惹きつけられる。初めて見た時から今まで、不思議なほどに揺るがない引力。これを愛と言わずして何というのか。
しかし、私にはしっかり彼氏もいたのだ。高校一年のときのクラスメートで、リバーくんとは似ても似つかないタイプだったけど、不思議と話が合った。
二人で話していると、何を考えているのか通じることが多々あって、合わせ鏡を思わせた。同じ表情、同じ動作が延々と続く不思議なパースペクティブ。
熱烈に好きになって盛り上がり、つきあうことに…という過程はなかったけれど、お互い少しづつ歩み寄って行った結果、特別な存在になっていた。居心地の良い関係、と私は勝手に解釈していたけど、相手がどう思っていたかは、今となっては、わからない。
でも、彼は私のリバー・フェニックス信奉をよく理解してくれていた。
「いつ見てもかっこいいな」と笑って、私に話した。変わってるよな、他にこんな人、見たことないよなぁ。絶対、日本にはおらんよな。
そうでしょ、この世界に唯一人、唯一の存在なんだ。
93年10月31日。彼がブァイパー・ルームで倒れたあの日。
あれから、私の中でハロウィンは命日だ。愛する人が死んだ日。
私が今でも彼に執着している理由は、彼が死んだことに、罪悪感を感じているからだ。説明できない罪悪感。今も忘れられない記憶。
そのハロウィンの二週間前、私は彼氏と旅行に行った。
親に黙って一泊二日、異性と初めての旅行だった。しかし、ちっとも楽しくなかった。彼は口数少なく、明らかに来たことを後悔している様子だった。どこへいっても何をしても会話は続かず、無気力で眠そうな彼を、わがままで無理矢理連れてきたような気がした。理由が思い当たらなくて、私も口数が少なくなる。早起きして作ったお弁当も半分残してしまった。無口なまま、二人でとぼとぼ歩いた。
どこに行こうか、とパンフレットをめくって一緒にはしゃいだのは、わずか一ヶ月前なのに。疲れているんだ、と彼は言う。でも、気づくとじっと下を向いている彼の顔は、何かを図るような、確かめるような表情にみえた。
「じゃあ」とバスターミナルで別れてから、彼から連絡がこなくなった。こちらから電話をしても、明らかに居留守を使われた。
私は手紙を書いた。こんな扱いは不当だ、誠実じゃない。逃げ回るような卑怯な人とつきあった覚えはない。最後くらい、ちゃんと説明しなさいよ。
最後、と書きながら最後にするつもりはなかった。まだ好きだと言う気持ちがあった。別れる理由も思いつかなかった。夏の間に、心変わりの相手が現れたのだろうか。まぁ、ありえる。でも、それなら説明すべきだろう。文面に怒りを書きながら、不思議と淡々とした気分だった。つきあって5年が経っていた。でもその期間、好きだと言ったことも言われたこともなかった。
2週間ぶりに電話があって、時間はとらせないから近くの公園まで来てくれとだけいって切れた。時刻は11時を回っていて、親は心配し怒ったが、15分で帰るからと振り切って家を出た。
彼は公園の入り口にバイクを止め、ヘルメットを抱えてぽつんと立っていた。直立不動の立ち姿、緊張が見て取れた。
「久しぶり」と駆け寄って近況報告をする。まるで今まで何もなかったかのように。
彼もホッとしたように話を合わし、しばらく会話を続けた。
旅行の話をふったとき、ふってわいたように、ここにいる意味を二人は思い出した。
「じゃあ、ってそういうことじゃないんだよ。俺、すごい決心でここに来たんだよ」
早口で言うと、彼は続けて「別れよう」と一言いった。
「え?なんで?どういう理由で? なんでよ、私、何かした? ていうか、そもそも私たち付き合ってたわけ? 私のこと好きだと思ってたの?」
私も早口になって聞き返す。目をそらして左耳しか見えない彼を、ぐっとあごをつかんで引き寄せる。硬い表情の彼と無理矢理、目を合わせようとしたが、いたいけな小鹿を拷問している気分になり、手を離した。
「何かあったわけでもないけど…でも、もういやなんだ」
ようやく大学に慣れて、やりたいこと夢中になれることが見つかって、のめりこみたいのだと、他のことに時間をとられたくないのだと、彼は言った。
納得いかなかった。好きなことすればいいじゃない。私に構わず今までだってやってたじゃない。何か隠している、言いたくないことを。
つきあってるっていったって、週に一時間程、家族に気を使いながら電話をする。一ヶ月に2、3度、予定をすり合わせて土日に会う。それだけじゃない、そう思った。高校生の時とはもう違う。
あなたは念願の大学生になって楽しいかもしれないけど、私は会社に勤めて働き始めて半年、一ヶ月の半分は残業で、帰ってくると日付は回っている。土日のうちどちらかは昼まで寝ないと疲れがとれない。その合間を縫って、電話したり遊びに行くことが邪魔だなんて、それってもう、愛がないってことなんだろうね。
下を向いて押し黙っている彼の顔をみていたら無性に悲しくなってきた。だって、どこをどう見ても、今まで自分が好きだと思って付き合ってきた彼ではない。ここにいるのは別人だ。
急に彼は私に向き直り、両手で私の顔をグニグニと挟み、言い出した。
「あーーやっぱり目の前にいると、可愛いな好きだって思う。でもサークルとかゼミ合宿とかで楽しくしてると、どうでもよくなっちゃうんだ。会いたいってそこまで思わないんだよ、正直。それって本当は好きじゃないんじゃないかなって思うんだよ…」
なんじゃそれ。何かが私の中で切れた。私は彼の両手をガツっとつかんで引き剥がし、思い切るように言った。
「そう、分かった。もうこうやっている事すら重荷なんだね、もう好きじゃないんだよね」
帰ろう。小走りに数歩走ってから、振り向いて手を降った。
「じゃあね!」
無理やり笑顔を作って手をブンブン振り、それから全速力で走って帰った。
親は玄関に灯りをつけて待っていた。きっかり15分だった。ただならぬ私の雰囲気を察したのか、お風呂入る?とトンチンカンな事を聞いてきた。
「いや、もう入ったし。寝ます、明日仕事だし」
布団にくるまり横になっても、一晩眠れなかった。これで良かったのかどうか、本当に私たちは別れたのか、様々な考えが浮かんでは消え、グルグルしていた。
私の頭の中に浮かんできたのは、森瑤子のエッセイだった。
それは失恋した女はどう振る舞うべきか、というエッセイで、20代の読者にあてて雑誌に掲載されていた。
「若ければ若いほど、失恋は歓迎すべき経験だ。何故ならそこで培った経験と審美眼で、さらに良い男に出会える機会を得たのだから。もしあなたが、フラれた男に執着しようとしているなら「次に行きなさい」と私はアドバイスする。でも、この世の終わりになっても一緒にいたいと激しい情熱を持てる男に出会えたなら、フラれてもフラれても好きだと思えるなら、その恋に一生を費やすのも悪くはない。そんな恋も滅多に出会えるものではないから。私もかつてそういう恋に出会った経験がある。その恋人が現在の夫だ」
私も、足にすがり付いても彼が好きだといえるだろうか。一晩考えて出した答えは、そこまでもう「好きではない」という自分の正直な感情だった。
親と顔を合わせたくなくて、朝一番に家を出て出社した。仕事をしていると、出社してきた同僚たちは、明らかに暗い私に驚き、後ずさりながらヒソヒソ話している。勇気を出した一人が、背後から話しかけてきた。
「なんかあった? 異様に暗いよ、おたく」
ストレートすぎるだろ!と思いながら「昨日、5年間好きだった男と別れました」と答えると、おおぅ…と後ろの集団がさらに引いていくのを感じた。
「それってあの…高校時代からの彼氏?」
「ええ、まぁ…」
「それはその…ご愁傷様でした」
葬式かい!とツッコミながらヘラヘラ笑っていると、勢いよくドアを開けて、隣の部署の上司が入ってきた。矢継ぎ早に言いながら、私のデスクまで駆け寄る。
「なーんでリバー・フェニックス死んじゃったのー? どうしてこの若さで死ななくちゃならないのよねぇ? なんかの間違いなんじゃないの? ねぇなんで?」
彼女は私のリバー・フェニックス好きをよく知っていて、新聞や雑誌の切り抜きをくれたり、映画の感想を聞かせてくれたり、何かと情報をシェアしてくれた。
仕事場のデスクには切り抜きが貼ってあるし、昼休みに試写会応募のハガキを書いていたりしたから、彼女だけでなく社内の全員が、私のリバー・フェニックス信奉を知っていた。
私は一晩で、現実の彼氏と理想の恋人を失ったのだ。一瞬、頭の中が真っ白になった。
瞬時にそのことを、私の背後に立つ同僚の皆は理解し、絶句していた。
恐ろしいほどの緊張と静けさが事務所内に張り詰めた。その異様な雰囲気に、上司は戸惑っている。マズいこと言っちゃった?と隣に立つ営業の子に耳打ちして、さぁ…とあいまいに濁されている。この雰囲気を変えなくちゃ、何か言わなくちゃ、と脅迫観念にかられて、ようやく一言だけ言った。
「あぁ〜なんか、私の青春が終わったんだな〜って感じしますねぇ」
「やっだ、大袈裟ねぇ!大丈夫? 知らなかったのね、朝のワイドショーでやってたよ。スポーツ新聞一面に見出し出てて、びっくりだよねえ、まぁ、そのね、こんな日でも仕事しなくちゃね、頑張ろう」
上司は、バシバシと私の肩を叩いてそそくさと出て行き、その場にいた皆もなんとなく仕事に戻った。
その日1日は正直、仕事どころではなかったのだけど、皆さん寛大で、私は良い職場に恵まれたと思う。今でも懐かしく思い出し、深く感謝している。
帰宅すると、親までが「あんたが好きなキツネ目の俳優さん、死んじゃったのね。大丈夫?」と心配してくれていた。友達から次々と連絡が入り、電話に出るたびに繰り返した。
気にかけてくださって、本当ありがとう。でも大丈夫。
しかし、正直に「彼とも別れました」とは言えなくて、本当のところはこたえた。
何故か、私の中に説明できない罪悪感があった。
私達が別れたことが、彼を好きじゃなくなったことが、リバーくんを死に至らしめたような気がして。
まったく意味不明ではあるけど。
テレビで新聞で雑誌で、追悼特集が組まれていたが、彼の姿の中に、もうキラキラは消えていた。
考えた挙句、私はまた彼に手紙を書いた。
「別に定期的に会わなくても、電話をしなくても、これで今までの私たちの関係が終わってしまうのはもったいないし、やっぱり寂しい。最初から、つきあおうとか好きだとかいって一緒にいるようになった関係じゃないし。ここから新しく、また友達になろうよ。お互い嫌いになったわけじゃないなら、できるんじゃないかな」
ポストに投函して2日目に、電話が掛かってきた。
私に取り次ぐとき、親は警戒していたけど、もう、成人した娘を家に閉じ込めて置くことはできないと観念していた。近くの公園に来て欲しいと言って電話は切れた。親には「すぐ帰るから」と私は家を出た。
公園の入り口にバイクをとめて立つ姿を見て、3日前の夜を思い出す。
何を伝えに来たんだろう。友達なんかになれるかとか言われるのだろうか。もう辛いことにあうのはコリゴリだ。これ以上、自分が削られるような体験をしたら身が持たない。やっぱり来るんじゃなかった。不安になって、回れ右をして家へ戻ろうとした。
「いや、ちょっと待って!ほんと、その、ごめんなさい!」と片腕をつかまれ、下へ引っ張られた。背中側につんのめって振り向くと、彼は土下座していた。スライディング土下座というやつだ。
「すすすすみません、気の迷いでしたぁあああああ。別れないでください!」
は?
……………………………はい?
今まで出会った物事のなかで、一番信じられないものを見ている気分だ。
「だって、あなた、会いたくないって言ったよね?もう好きじゃないって」
アスファルトに額をすりつけながら、彼は言う。
「はい、その、そのときはそう思っていたんですけど、いざ別れるとなったら寂しくて…気の迷いでした。あの後、ずっとテレビでリバー・フェニックスの訃報やってるじゃん、見てると居たたまれなくて…」
思わず声を荒げた。
「なんだよ同情なの? そんなものいらないよ。だからドライな関係になろうって、友達になろうって思ったんだよ。私、大丈夫だから」
つっぱねて帰ろうとすると、足にすがりつかれた。
「あれから、やっぱり間違いだったってずっと後悔してるんだよ。で、手紙がきてさ…読んで確信したんだよ、俺は友達になんかなりたくないんだ」
「…別れたかったんだよね?」
「いや、そもそも別れるも何も、付き合おうなんてなかったっていったじゃん。なら、今日から付き合ってくれよ。俺はお前が好きなんだって分かったんだよ」
はあぁああああああ?
お分かり頂けるだろうか、私の驚愕と怒りを。
「私、すごく傷ついたんですけど」
「はい、反省しています。申し訳ありませんでした」
「とりあえず立ってよ」
「許すって言ってくれたら、元の関係に戻ってくれるっていうなら、立つ」
なんじゃ、この自分勝手な男。
しかし先日とは違って時刻はまだ7時過ぎ、部活帰りの学生や帰宅に急ぐサラリーマンが、住宅街の真ん中で、私の足にすがり付いて土下座する男を横目に見ながら通り過ぎていく。
この状況、明らかに訳ありで、私が悪いみたいじゃないか!!
「やめてよ、もう!!ここはうちの近所なんだよ、どこも知り合いだらけなんだよ!何言われるか分かんないんでしょ!」
とりあえず立たせながら小声で叱る。彼は嗚咽をもらして口元と目を片手で抑えていた。
「本当、ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
「分かったよ、もう。とりあえずさ、今日は帰んなよ、バイク気をつけなね」
「やっぱり…ダメなのかな」
捨てられた子犬みたいな目に耐えられなくて、つい言ってしまった。
「それはさ、これからなんじゃないの。こんな風になってしまったのは、もう今までの関係でいられなかったからでしょ。これから、新しい関係を作っていくしかない。本当はどう思っているのか、単に都合の良い女を手放したくなくなったのか、これから見定めさせてもらう。でも、まぁ嫌われたわけじゃないことが分かって良かったけど」
「ゆるしてくれるんだ、お前やっぱりいいやつだなぁ」
それには返事せずに、ひたと彼の目を見る。
「何があったんだよ」
彼は答えず、目をそらした。
「今日は帰りなよ」
うつむいたまま一礼すると、ヘルメットをかぶり、彼は帰って行った。
それからまぁ、平たく言うとモトサヤに収まったわけだが。
やっぱり不信感が拭えなくて(当たり前だ)
ケンカが絶えなくて(言いたいことを前よりもハッキリ言えるようになったので、私は楽になったが、むこうは「…変わった」ととまどっていた)
それから半年ほどゴタゴタが続いた、ある日。
気になる相手が現れて、あっという間に新しい恋に落ちた私は「そういうことなんで、じゃあね」とあっさり彼と別れ、乗り換えたのだった。
でも多分、彼もホッとしていたと思う。よりを戻してから、何度か「こんなはずじゃなかった」と言いたげな表情を見てたから。
その間、リバーくんの死顔写真が週刊誌に載ったり、弟・ホアキンくんが救急にかけた通話が放映されたり、ショッキングな情報が流れ、その度に私も傷ついた。
例え時間を巻き戻せたとしても、どうやっても、救ってあげられないのに。
倒れているリバーくんをADSを持ってきて蘇生させたり、使おうとした薬を取り上げて叱ったり、そんな夢をいくつも見た。何度も何度も、死ぬ瞬間を阻止しようと私は夢を見る。
息を吹き返すリバーくんを抱きしめながら、良かったと安堵すると目が覚める。
夢の中ではいつも、リバーくんは死なずに助かるのだ。
良かった。夢の中だけでも助かって良かった。
彼が亡くなってから、27年。
その後、何度か彼はコンタクトを取ってきた。でも結局、私たちは友達になれなかった。
それは、私の中で、あのハロウィンの夜までの5年間が、完璧で美しかった思い出に昇華されてしまってるからだ。
楽しかったよ。ありがとう。あなたのおかげです。
毎年、誕生日には思い出す。
そのときの彼は、今でもプリズムの光の中に居る。
私は彼に語りかける。
弟のホアキンくんはね、今年アカデミー賞獲ったよ、すごいよね。
そして、つきあってる女優さん、ルーニー・マーラとの間に男の子が生まれたそう。
彼らは、その子に「リバー」と名付けたんだ。
新しいリバー・フェニックスが、この世に生まれてきたんだね。
この子はどんな子になっていくのかな。どんなふうでも、素晴らしい人生を過ごしますように。あの虹色の光に包まれて、愛し愛されて育ちますように。
リバーくんは今でも私の夢に現れる。23歳の姿のままで。
今でも変わらず愛してる。
その思いは変わらない。