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やさしさマトリョーシカ 《ぼんやりRADIOさん》
旅行帰りの祖父母がスーツケースから取り出したカラフルな民芸品を見て、当時中学生だったわたしは思った。なんだこれ?
手のひらサイズのボーリングのピンのようなそれには顔があり、スカーフが巻かれていた。「開けてごらん」とうながされて、ねじりながら開けてみると、また同じ顔で同じ色の人形が入っている。開けては置き、開けては置いて、5つか6つほど並べただろうか。最後の1体は小指の先ほどにちいさかった。開けても開けても同じ女の子が出てくる。マトリョーシカというらしいその人形のことを、なんだか金太郎飴のようだと思った。
ぼんやりRADIO という書き手がいる。
彼は毎晩のように奥さんにラブレターをしたためている。
出会いはしめじさんのnote。「気になるnoter」として紹介されていたのが彼だった。さっそく読みにいくと、その時点で投稿されていたのは奥さんへのラブレター5通のみ。やさしい気持ちを易しいことばで綴った、原稿用紙1枚にあまる恋文がそこにあった。
彼のラブレターは、真夜中のバスタブのよう。
ときには新入りの給湯器が歌って「お風呂が湧きました」としゃべったり、季節になると柚子が香ったりする。夜も更けているから肌なじみのいい湯になっていて、そっと身体をひたせばやわやわと包んでくれる。その心地よさがくせになり、ついつい立ち寄ってしまうし、親近感もわいてくる。
知り合って早々に、わたしは彼を「ぼんラジさん」と呼ぶことにした。
その頃のことだ。この状況下で彼らが結婚式を延期したのだと聞いて、思わずわたしは要らぬおせっかいを焼いた。いつかの式のためにラブレターを本にしたらいいだの何だの、本気で要らない近所のおばちゃん的なアレ。
のちにラブレター以外の彼の作品を読んで、わたしは彼に「もしかして書いていた人ですか?」と尋ねることになる。書いていた人どころか書き手に発注する側、つまり編集者だったことを知った今では、あのおせっかいは穴があったら入りたいほど恥ずかしい。
先日、ニャークスのヤマダさんの #100文字の世界 という企画のなかで、ぴったり100字で彼へのファンレターを書いた。奇跡的にというかなんというか、1秒差で企画が終了していたことを知ったのは、数日経ってからのこと。
書きながら、何と無謀なことをしているのかと思った。そもそも、グランブルーのような彼の魅力を、わたし程度の技量で100字とその行間をもって表現できるわけがない。ファンレターと銘打つからには、その良さを、何に憧れ、何を享受しているかを存分に語り尽くしたいのに。
それでも、彼の「あの時間を大事にしまっておきたいくらいです。」という一文が忘れられなくて、ふたりの時間を勝手にキャラメルの箱にとじこめた。手のひらでそっと閉めてもなお甘く匂いたつそれを、わたしはさらに100字にとじこめて彼に贈った。妻に恋する男のラブレターへのファンレター。
すると、彼からも贈り物が届いた。彩りゆたかな果実のゼリーを詰めた宝石箱のようなそれは、あけた瞬間こころおどって、読めば読むほど味わい深く、よろこびが身にしみた。ラブレターのファンレターのお礼の文章。やさしさのマトリョーシカ。
短歌という手法は、言葉を尽くしても語る事が出来ない、その気配に焦点を合わせた表現なのではと思えてなりません。
まるで、絞りやシャッタースピードで露出調節して光の量を決め、焦点距離を見定めて撮影された一葉の写真のようです。
この宝石箱のような文章のなかで、彼はひとつの問いを立てた。
なぜ僕の記事をこのように好意的に読んでくれ、ファンレターまで書いてくれるのだろうか
彼はわたしのnoteをすべて読むというプロセスを通して既に正解を導き出していたけれど、今度はわたしがその疑問に答えたいと思った。わたしなりの表現で。
彼のラブレターは、荻上直子監督の映画のよう。劇的で派手なエピソードは語られないけれど、日々の暮らしの音のなかに、そっと語る声と奥さんへのまなざし、こころの奥にしまったいつかの哀しみがあって、ときおりまぁるい笑い声が加わる。油断して読んでいると、いつの間にか彼らのお茶の間に上がりこんで、すっかりくつろぎ、おせんべいを食べている。
彼のラブレターは、読み手を無理に揺さぶらない。奥さんへのラブレターだから、視点がぶれることもない。彼は目尻をさげて奥さんを見つめながら、見渡せる範囲のふたりの日常を、細く一定量にコントロールされた愛色のインクで綴っていく。かすれることもなければ、インク溜まりができることもない。淡々と美しく、明日もつづく。
ラブレターと言いながら、その文章のカロリーは高くない。燃えさかる炎は彼の心にあるにちがいないけれど、炎に含まれた水分を彼はけっして見せようとはしない。ていねいに文字に変換されたそれは、からりとした炭火のよう。遠赤外線を発して、そこに群がるわたし達の心と手のひらを温めてくれる。
そう感じるのは、どうやらわたしだけではないらしい。彼のラブレターのコメント欄では「癒やされました」ということばをよく見かける。もちろん、わたしも書いたことがある。彼のもとへ足しげく通う常連客は、きっとみな そう感じた経験があるにちがいない。
彼のラブレターを読んでいると、奥さんが身をおく演芸の世界が、ふたりを取り巻く日常が、けっして真夜中のぬるま湯でないことが伝わってくる。ときに理不尽な出来事に落ち込み、ふたり哀しむ夜も見えるときがある。
だからこそ、彼は奥さんの成功への祈りとエール、そしてその幸せを守りぬく決意を、ラブレターに閉じこめていくのだろう。
奥さんに内緒で書きはじめたラブレターは、どうやらいまだに内緒らしい。毎晩のように投稿しているのにバレないなんて、よっぽど仕事熱心な夫だと信じて疑わない健気な妻か、気づいているのに見て見ぬふりを続けてくれるオトナな妻か。いずれにせよ、どのラブレターを読んでも彼が奥さんに向ける目線はやさしいし、いつのラブレターを読んでもふたりのお茶の間の空気は甘い。それはさながらマトリョーシカのようでもあり、金太郎飴のようでもある。
ついラブレターのことばかり熱く語ってしまったけれど、彼の文章に居ずまいを正したのは、彼がnoteで書いた初めてのエッセイを読んだときだった。
だから、味わい深い掌編小説もいくつもあるけれど、今回は、今の時点でのわたしのおすすめエッセイ3作品を置いておこうと思う。
本来だったら、紹介文を添えるのが筋ってもんだろうと思うけれど、わたしのことばで、あなたの感じた気持ちをマスキングしてしまうといけないから、あえて書かないでおく。
実は文字数もおしている。グランブルーを語るには3000字でも足りないらしい。引用文を添えるから、読んでもらえたらうれしい。
そして、もしお時間がゆるすのなら、ぼんラジさんの作品のコメント欄でまた会いましょう。恥ずかしがり屋のあなたは、そっと覗くだけで。彼のコメント欄も、もちろん真夜中のバスタブのような心地よさですから。
小学校の絵画コンクールで金賞を獲った時も「バカヤロー」と言って満面の笑みでヤスリのような頬をすり寄せてきました。
中学校の定期テストで良い点を獲った時も誇らしげに笑って「バカヤロー」と缶ビールを開けました。
高校生の時に初めて朝帰りをすると、怒りを堪えた背中をこちらに向けて「バカヤロー」と静かに言いました。
私は父の「バカヤロー」があまり好きではありませんでした。
☆
全く信用していなかったSNSの世界で書いた物を、読んで貰って感想を貰っただけなのに、時々泣きたくなるほど心が動く。
新人編集者として書いた一番最初の編集後記を、あの力一杯書いた編集後記を誰かが見つけてくれて、読んでくれて、感想を言ってくれた。
僕にとってnoteは誇張なしにそれと同等の嬉しさが湧き上がってくる、そんな場所である。
☆
僕より奥さんの方が毎日外で辛い思いをしているので、(奥さんがこちらの年齢を鑑みてたまに心配してくれるので)無理しない程度に出来る限りのサポートをしたいと思っているし、大体おちょけている。
ここでカミングアウトしてしまうと、僕はだいたい家でおちょけている。
奥さんを笑わせるために。
笑顔を欲しがり、汗だくでおちょける時もある。結果は言わずもがなで、一割程度の打率だ。
ぼんラジさん、いつもありがとう。
みんなの真似をして、あなたの言葉を借りて、この記事を締めくくろうと思います。
今日も大好きです。
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