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泣きぼくろダウト

 

 どれだけスクロールしても杏奈を見つけられなくて、はじめて異変に気がついた。
 あわてて陸とのチャットを開けてみる。ついさっきの「最近、連絡取った?」というメッセージの上にはニ年前の会話が残っているだけで、その間のやりとりが丸々抜けていた。アイコンをひとつずつ確認するけれど、残っているのはすべてニ年前までの会話。そこまできてようやく、アプリの引き継ぎを失敗したのだと理解した。
 
 新しいスマホに引き継がれたのは、前回の機種変更時のデータなのだろう。あわてて検索してみたけれど、このニ年間の履歴を取り戻す方法は見つからない。

 杏奈と再会したのは、研修で東京本社へ行ったニ年前の五月。前回の機種変更から間もない頃だから、データが丸々なくなってしまったということか。
 あのとき、高校卒業から八年も経ってはじめて、彼女とIDを交換した。

 

 

「ねぇ、何の本読んでるの?」
 机の脇から覗きこまれたとき、心臓が跳ねあがった。あわてて現実にピントを合わせる。色素のうすい大きな瞳はまっすぐ私をとらえていて、とっさに声が出ない。凄絶ないじめの描写に没入していたから数秒かかる。突然釣りあげられた深海魚は、こんな感覚かもしれない。

「あの、これ。図書館の新刊コーナーにあって」
 本を立てて表紙を見せると、杏奈は唇のはじを少し上げた。
「『ヘヴン』か。中村さんはいつも本読んでるよね。さすが図書委員。そういえば、前にもなんか感想文で表彰されてたよね」
「あ・・・あれはたまたま」
「あたし本読むの苦手だから、ほんと尊敬しちゃう。でも、中村さん、なんかすごい深刻な顔してたから」

 そのとき、隣のクラスの男子が廊下から杏奈を呼んで、彼女は「あ、邪魔してごめん。続きどうぞ」と言いながら走っていった。長い髪がなびいて香りだけが残る。あまったるく熟れた桃の。

 あの頃、杏奈は気づいていたんだろうか。私が彼女を描いていたことを。

 

 

 石田先生のジーパンはにぎやかだ。赤・緑・白・黄・青・・・さまざまな油絵の具が点々とのり、ところどころ平筆の刷毛目も見える。イーゼルの間を通り過ぎた脚が戻ってくる。

「ここはもう少し混ぜたらどうかな」
「頬のラインですか?」
「うん。そうすると・・・」
「そうすると?」
「いや、いいんだ。考えて」

 石田先生はいつも断片的な言葉だけをくれて、ふらりと油彩実習室を出ていってしまう。誰かが筆をあらう角のない音だけが響く。

「なぁ、石田の、あの途中でやめる系のやつ、気になるよな」
 つぶやいた陸の言葉が空気を揺らした。

 

 目を閉じて、観る。
 窓辺に立つ逆光の頬は、桃の肌のように淡い金色ににじんでいる。ウエスで頬のラインを拭きとって、アンティークイエローの2番をパレットにのせる。

 杏奈は教室のいちばん騒がしいグループにいるのに、必ず決まった時間になると、ひとり窓辺に立った。帰りのホームルーム終了後の三分間。長いまつげの下の瞳は、部室へ向かう男子を追っている。彼女が立つのが教室の前方なのは、そこがいちばん長く彼を見ていられるからだと、私は知っていた。
 杏奈の頬にできる影の角度で、彼の動きがわかる。徐々に見えてくる表情を私は待った。指でつまんだような鼻のライン、開くことのないかたちの良い唇、手すりにかけた細い手首。
 佐々木くんがサッカー部の扉をあけると、杏奈はみんなと話しながら教室を出ていく。その後ろ姿を見送って美術室へ向かうのが、私の日課だった。

 高校時代から何度となく描いてきた杏奈の横顔は、最初の一枚から杏奈ではない。キャンバスの彼女の目元には、ほくろを描き入れてきた。杏奈にはない左目の泣きぼくろ。最初は何も考えずにしたことだけれど、必ず。

 調色した絵の具を頬に置きなおしながら、思った。
 この課題で最後にしよう。もう、彼女は描かない。

 

 

 連休明けの東京は、五月とはいえ真夏の陽射しだった。スーツにタンクトップを合わせたのを後悔した。研修中は快適でも、一歩外へ出ると暑い。脱ぎたくても脱げない。
 ホテルへ向かう途中、向こうから坂を下ってくる女性と目が合った。白地に紅い花のワンピースが揺れている。右から照らす陽光に浮きあがる輪郭、グレーがかった大きな瞳、それと正三角形をなす小さな鼻、はじを少し上げた唇。足し算されたメイクや髪型など関係なく、ひと目で杏奈だとわかった。
 私は目を逸らした。お願い。気づかないで。

「中村さん?」
 背後から聞こえた声に、意に反して足がとまる。かつて、この声を耳だけで探していた時期があった。振りむくまでに迷った時間は、ほんの一瞬だったかもしれない。

「やっぱり。中村さんだと思った」
 おそるおそる振り向くと、彼女は微笑んだ。胸のどこかがちりっとした。言葉がうまく出ない。“スーツを着た私”を引っぱり出す。
「金城さん? え、金城さんなの? 気づかなかった」
 なめらかな嘘を唇にのせて、私は微笑んだ。

 杏奈は私のスーツケースに目をやり、言った。
「今から暇? せっかくだから、夕飯いっしょにどう? 主人のお店がこのちょっと先にあるの。ごちそうするわ」
「金城さん、結婚してるの?」
「うん。今は金城じゃなくて、鈴木」
「そっか。お誘いありがとうございます。でも、ごちそうしてもらうわけにはいかないし、明日も早いから、ここで」
「ごめんなさい。気分を害したかな。じゃあ、お代はちゃんと頂くからどう? あたし、中村さんに聞きたいことがあるの」

 

 

 杏奈は私の描く人物画を見たことがあると言った。何枚も描いたからいつの作品か見当がつかず、かと言って「どれを見たの?」なんて口が裂けても聞けない。暑い。吹きだす汗を手で押さえる。うろたえる私に杏奈は言った。

「近藤陸くん。知ってるよね? 彼、夫の同級生なの。ここへもよく来るのよ」
 杏奈によると、当時付き合っていた旦那さんに陸が「おまえの彼女にそっくり」と絵の写真を見せたらしい。石田先生が何度も足をとめたあの作品は、学外のちいさなコンクールで入賞していた。杏奈は作品のキャプションボードの名前を見て、私を思い出したらしい。

 杏奈のあまく彩られた口もとを見つめながら、私は「似てるけど違う人」だと告げた。
「泣きぼくろのある女の子の絵でしょう?」
 何度となく頭で再生したセリフ。なのに、こんなに落ちつかないのは何故だろう。どうして本当のことを言えなかったんだろう。今さらどう思われたっていいのに。
 両手のなかのグラスの氷が音をたてる。バーテンダーと目が合った。ここのジントニックは、ちょっと薬くさい。

 

 

 陸に「最近は連絡取ってない」と返事を打つ。
 これでもう、彼女からの連絡を待たなくても済む。杏奈の連絡先がわからなくなって、ほっとしている自分に驚いた。あんなに焦がれていたのに。

 妊活、夫への疑念、猫のこと。
 聞きたくない。私の杏奈は絵に閉じこめた光であって、それを本人の言葉で汚されたくなくて、冷たく返す。
 そのくせ、しばらく連絡がこないと苛立った。
 自分が何を望んでいるのかわからなかった。

 でも、これは嫉妬かもしれない。私は杏奈に必要とされたかったのかもしれない。
 杏奈はどうしたかったのだろう。
 
 陸から新しいメッセージが届く。
「中村のところに杏奈ちゃん行ってない? 連絡つかないらしいんだけど」

 

 読んだ瞬間、インターホンが鳴った。

 

 


 

このちいさな物語は、清世さんの企画 #絵から小説 に参加しています。
清世さんのこの絵から、着想を得た物語です。


絵から本文用

==2021.8.15.追記========

 この絵をはじめて見たとき、感じたのは艶めかしさでした。ふたりの関係性が既に絵の中に描かれていて、そこから物語を少しずつ紡ぎました。ふたりの主/従や、感情の優位性が、微妙にずれている視線や表情に現れているように感じたので、そこをなんとか言語化したいと思いながら書きました。
 清世さん、素敵な企画をありがとうございました!

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ここまで読んでくれたんですね! ありがとう!