
こんがらがった母と子の「正解」 -こんちゃんとの往復書簡-
こんちゃん、こんばんは。先日はお手紙をありがとうございました。
実は、はじめて読んだとき「わたしは大変なことを引き受けちゃったのかもしれない!」って焦りました。ん・・・? 何だかむずかしいぞ?って。
だってね、こんちゃんが第1回のテーマとして書いた 修正と調整、このふたつの単語を並べて、ちがいを考えたことなんてなかったんです。
でも、何度か読んでいるうちに、こんちゃんの言う修正と調整の意味がちょっとずつ見えてきたような気がします。
調整は「ちょうどいいところを探して、ととのえる」ことですよね。修正は「誤りを正しくなおす」ことですよね。
お手紙のなかで、こんちゃんは「僕は修正の中で育ちました」って言いましたね。共通点のある生い立ちのわたしには、その意味、わかります。何となくですけどね。
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この往復書簡は、こんちゃんが standFM✕note で展開している企画「ひとつ質問してもいいですか?」から生まれました。
まだまだ寒かった2月半ば、こんちゃんとじっくりZoomでお話しさせていただいたんです。相談した結果、わたしのわがままを聞いていただき、音声配信ではなく、往復書簡というかたちで参加させていただくことになりました。
こんちゃんから頂いた、このお手紙へのお返事です。
こちらの往復書簡では、僕が今気になっている言葉をテーマに取り上げ、その言葉についてうたさんに質問していきます。これから3回に渡って僕とうたさんの共通点である「愛」と「言葉」について書簡のやりとりの様子をお送りしていきます。
みなさんの心にどこかつながる部分があれば幸いです。
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修正の中で育ったというこんちゃんのことばを、わたしのことばに訳すと、こうなります。修正を求めた相手を母親と仮定して、想像で書きますね。もし ちがっていたら、教えてください。
こどもが母親の求める「正解」を生きられるよう、母親がこどもを正しくなおす環境で、育った。
もっと強いことばを使うと、母親が自分の正しいと信じる方向へ、こどもを誘引・矯正する環境で育ったとも言えるでしょう。
こどもってね、お母さんのこと無条件で愛してるんです。あ、これ、ちいさいときの話ね。
「こども」とか「お母さん」とか書いちゃうと、主語が大きすぎるかな。ちょっと、わたしの話にしてみますね。
ちいさい うたちゃんは、お母さんのことが大好き。だから、お母さんも自分のこと大好きって思ってます。
ところが育っていくうちに、もしかしたら自分のこと お母さんは大好きじゃないのかも?って思う場面に出会います。それはお母さんがわたしを無視する態度や、その怒りに触れた瞬間です。
怖い。
でも、お母さんに頼るしかない。助けてくれる人なんて、いないから。
お母さん、ごめんね。怒らないで。
どうすれば、こっちを見てくれる?
どうしたら、笑ってくれる?
こういうとき、母だって真剣です。「愛してるから」「こどものためを思って」正解を教えようとします。だって彼女だって、わたしが将来困らないように育てたいんです。スムーズで失敗しないで生きられるように。
そして、母はわたしを正しく育てたかったんです。自分自身が正しい育児をした母親だと認められたいから。母自身はきっと気づいていないと思いますが。
幼いわたしは、母が思っているよりもきっとずっと感じやすくて、柔軟でした。ほんのわずかな母の表情や声のトーンの変化から、教えられた正解のとおりにすれば愛されるのだと考えて、そうしようとします。そうやって、常に正解を探して修正する人生が始まったのでしょう。
ガチガチに修正されている間は、それに気付かない。正解は、わたしの生きるための指標になっていたんです。
でもね、自分が探しつづけてきた正解が、母から愛されたい、認められたいための正解だったのかもしれないと思い至った瞬間、わたしの自我が揺らぎました。生きるための指標=正解を見失ってしまったからです。
わたしが気づいた年齢が、ちょうど今のこんちゃんと同じだと聞いて、「あぁ、わたし達が話すテーマはこれなんだなぁ」って思いましたよ。
正解を探しながら子育てをしている自分自身に気づいたとき、わたしを押し込めた母を憎んだのと同時に、今までのわたしの育児を振りかえってゾッとしました。母と似た育児をしてきたような気がしたからです。
それからの数年間は、気づく前よりもずっと苦しかった。変わりたくて、もがいて、でも簡単には変われない自分を再発見して、息苦しくなって。まるで、お風呂で溺れてるみたいな感覚だったんです。すぐそこに、苦しくない世界が見えているのに、自分はぬるま湯の浅瀬でもがいている。
楽になったきっかけは、決めたことでした。
正解を求める生きかたは、やめよう。
変わりたいんじゃなくて、今この瞬間から変わるんだって。
決めた瞬間から世界の色が変わって見えたし、こころに酸素がたっぷり供給されました。一歩引いてこども達を見守れるように、そして、わたし自身が心地よくご機嫌でいられるように、夫や母との距離を注意ぶかく調整しました。
こんちゃん、お手紙のなかでわたしに育児の前後で変わったかって尋ねましたね。
この問い、パッと答えが浮かばなくって、湯舟でじっくり考えました。
結論からいうとね、何も変わっていないんです。
何も変わらない=こどもから何も受け取っていない・・・では決してありません。わたしが彼らから与えられたものは数知れずありますし、今現在も受け取っていますから。
わたし自身は育児で何かが変わったわけではないけれど、強いて言えば、わたしが気づき、決めたことで、育児が変わりました。育児というか、こどもとの関係性かもしれません。
どう変わったのかというと、それまでよりもずっと面白く、楽しくなったんです。
わたしは育児生活の比較的早い段階、こども達が幼児のあいだに、母と自分自身のいびつでこんがらがった関係に気づくことができました。
気づくとね、自分は母と同じことをするまい!って思うんですよ。それは強く強く。自分がされてしんどかったことのうち、我が子の成長に必要なさそうなものは、しないと決めました。
同時に、正しく育てなきゃ!って思うのをやめました。
そしたらね、気持ちに余裕が生まれたんです。それが良かったのかもね。
最後にひとつだけ。
今のわたしは、このわたしの苦しかったこころの内を、母に知ってほしいとは思っていません。気づかなくていいんです。もしも気づいてしまったら、母は後悔するでしょう。でも、今さら後悔したところで、わたしの過去は何も変わらないのです。それならば、母は気づかないまま、今の人生を生ききればいい。
わたしが、この過去の意味づけを変えればいいだけなのです。
わたし自身のために。
長くなりましたね。
お話のつづきは、こんちゃんのお返事を待ってからにしますね。
この週末は、桜がうつくしいです。それでは、また。
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