見出し画像

インド史⑨ ~シャージャハーンとアウラングゼーブ~

アクバル帝によるムスリムとヒンドゥーの融和策が功を奏し、16世紀後半から17世紀にかけてムガル帝国は安定期に入り、イスラム文化とインド土着の文化が融合したインド・イスラム文化も最盛期を迎えた。イランからの影響を受けた細密画(ミニアチュール)は、当初は宮廷の保護を受けたムガル絵画として発展し、やがて一般民衆にも広まって庶民的なラージプート絵画となった。第5代皇帝のシャー・ジャハーンはデカン高原まで領土を拡大し、1648年に新都シャージャハーナバード(後のデリー)を建設してアグラから遷都した。最愛の妃であったムムターズ・マハルに先立たれた帝は彼女の死を深く嘆き、アグラ郊外にタージ・マハルを建設した。白い大理石のドームを中心に4本のミナレット(尖塔)が配されたインド・イスラム建築の代表作であるタージ・マハルは、後に世界で最も美しい建造物と呼ばれ、世界遺産にも登録されている。

シャー・ジャハーン帝とムムターズ・マハルの間には14人もの子がいたが、帝が年老いて病気がちになると、その中で後継争いが起こる。兄たちを排除した三男のアウラングゼーブは、父王をアグラ城に幽閉して第6代皇帝の地位を手に入れた。熱心なスンナ派のイスラム教徒であった彼は、アクバル帝以来の融和政策を転換し、1679年には異教徒への人頭税であるジズヤを復活させ、ヒンドゥー寺院のモスクへの建て替えをはじめ、他宗教への弾圧と徹底したイスラム化を強行した。各地で起こった反乱に対して、彼は武力による強硬手段で鎮圧に臨み、1681年には南インドまで遠征を行って帝国の領土を最大化した。しかし、弾圧された非ムスリムの反発は強く、デカン高原のヒンドゥー教勢力はマラーター王国を中心にマラーター同盟を結び、パンジャブ地方ではヒンドゥーとイスラムを融合させたシク教が勢力を強めた。当初は平和的な宗教集団であったシク教徒たちは、アウラングゼーブの圧政に対する反発から、戦闘的な組織へと変貌していったのである。18世紀に入ってアウラングゼーブ帝が死ぬと、ヒンドゥー教徒中心のラージプート諸侯たちは次々とムガル帝国から離反し、帝国の内部分裂は更に進んだ。イギリスによるインドの植民地化は、こうした背景があってこそ可能となったのだ。

現代のインドとパキスタンを巡る問題にもつながるコミュナリズム(宗教対立)の激化はアウラングゼーブの政策転換に端を発している。アクバルからシャー・ジャハーンに至るまでの融和政策の成果を、彼は一代にして台無しにしてしまったと言えよう。強大な軍事力に任せて異教徒を弾圧し排除しようとした彼の非寛容政策は、結果として帝国の衰亡を招いただけでなく、後の世にも禍根を残すことになってしまった。息子のアウラングゼーブによって帝位を追われた晩年のシャー・ジャハーン帝は、幽閉されたアグラ城の窓からタージ・マハルを眺めて涙にくれたという。タージ・マハルの美は後世に残ったが、それが美しければ美しいほど、失われたものの大きさが身に沁みて哀しく感じられるのである。

いいなと思ったら応援しよう!