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ローマ・イタリア史⑩ ~パックス・ロマーナ~

紀元前27年の初代皇帝アウグスティス時代から後180年の五賢帝時代終結までの約200年をパックス・ロマーナ(ローマの平和)と呼ぶ。それまでの地中海世界は、前5世紀のペルシア戦争から前1世紀のアクティウムの開戦まで500年にわたって戦火の絶える時がなかったが、ローマが広範囲にわたる覇権を確立したことで、地中海がローマの内海となり、政治的安定がもたらされたのだ。支配を受ける側の属州民としては、ローマの統治に不満を抱く者も少なくなかったであろうが、圧倒的な財力と軍事力を持ち、幾多の戦乱と政治的試行錯誤を経てきたローマ帝国のパワー・ポリティクスに対抗できる勢力は、もはや地中海世界には存在しなかった。

とはいえ、皇帝を頂点に戴く集権国家の常として、帝位を巡る争いは幾度となく起こった。特に第5代皇帝ネロが帝位に就く際には、彼の母親が先帝クラウディウスを暗殺するという暴挙に出ている。ネロは即位直後にはストア派哲学者セネカの助言を得て善政を敷いたものの、やがて暴君化し、毎夜のように乱痴気騒ぎを続け、ローマに大火が起こるとその罪をキリスト教徒に被せて大迫害を行い、師のセネカをも死に追いやった。彼の狂気の根底には強大すぎる権力を手にした人間が、その重圧に耐えきれずに精神の均衡を崩していく過程が如実に表れている。権力の集中は、政治的安定と引き換えに中枢に座る人間の精神を蝕んでいくものなのかもしれない。

人望を完全に失ったネロが元老院によって廃位に追い込まれて自殺した後、パレスチナのユダヤ戦争を鎮圧したウィスパシアヌスが即位し、財政再建のための増税を行う一方で、民衆向けの娯楽施設として大競技場(コロッセウム)を建設した。いわゆるアメとムチの使い分け、人気取りのための「パンとサーカス」の提供である。皇帝権力といえども、民衆の支持を失っては成り立たない。歴代のローマ皇帝は、そうした点に敏感であったからこそ帝位を保つことができたと言える。

イタリア南部のヴェスヴィオ火山の噴火によってポンペイが町ごと火山灰に埋もれるという悲劇を乗り越えローマの発展は続いた。ネルウァ帝から始まる五賢帝時代、トラヤヌス帝、ハドリアヌス帝の治世にローマの版図は最大となり、西はイベリア半島、北はブリタニア、東は西アジアのパルティア、南はアフリカ北部一帯を掌中に収めた。まさに地中海がローマの内海となったのである。アントニヌス=ピウス帝を経て、哲人皇帝と呼ばれたマルクス=アウレリウス=アントニヌス帝に至るまで、ローマの平和は保たれた。

パックス・ロマーナが200年にもわたって続いたのには、いくつかの要因が考えられる。皇帝を頂点とした官僚制が有効に機能したこと、属州からの豊富な物産の流入が増大する人口を養い得たこと、ノヴァリス(新貴族)やエクイティス(騎士階級)などの新興勢力を取り込むことで人材の新陳代謝に成功したこと、土木工事技術の進歩によってインフラ整備が進んだこと等、広大な領土と膨大な人口を有効活用したシステム構築こそがローマの平和を支えた要因であろう。だがどんなシステムも、いつかは制度疲労を起こす。広大すぎる支配領域を維持し続けるには、どこかに無理が生じるものだ。変化は辺境から――。北方と東方のゲルマン民族の侵入が活発になり、広大なローマ帝国はその防衛線の長大さゆえに、徐々にその領土を侵食されていくのである。

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