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連載 スイスの歴史② 民族移動

ローマ帝国による統治が揺らぎ始めた四世紀から五世紀にかけて、東方のゲルマン民族が西方へと大移動を始めた。スイス東部にはゲルマン系アレマン族が押し寄せ、先住のケルト系民族は次第に西方へと追いやられていった。ゲルマン民族は、ローマ化されたガリア先住民とは異なる言語を話し、武勇を重んじ、戦闘に優れていた。現代フランス語において、ドイツ語のことを"Allemand"と呼ぶのは、このアレマン族に起因するものだ。ちなみに英語の"German"は、もちろんゲルマンに由来する言葉である。

とはいえ、スイス地域全体が完全にゲルマン化したわけではない。無数の険しい山々で寸断されたスイス地域では、アレマン族の侵入は主に東部にとどまり、南部に入ったゲルマン系のランゴバルド族は急速にローマ化してイタリア語を話すようになり、西部には同じくゲルマン系のブルグント族が侵入して、443年にフランス地域にまたがるブルグント王国を建て、フランス語を話すようになった。また、東部山中にとどまったケルト系先住民のラエティア族はラテン語から派生したロマンシュ語を話し続けた。こうして現在に至るスイスの多言語並立の基礎が出来上がったのである。

多言語国家スイスの言語区分

六世紀になると、ゲルマン系のフランク族が勢力を増す。ブルグント王国・アレマン公国・ランゴバルド王国を次々に制圧したフランク王国は、八世紀に旧ランゴバルド領であったラヴェンナと中部イタリアをローマ教皇に寄進し、キリスト教会との関係を深めた。フランク王国は八世紀後半から九世紀にかけて、カール大帝のもとで最盛期を迎え、ドイツ・フランス・イタリアにまたがる最大領土を得た。この時代には、スイス全域がフランク王国の統治下に入っていたことになる。

フランク王国(「世界の歴史まっぷ」より)

しかし、カール大帝の後を継いだルートビッヒ一世が死去すると王子三兄弟の間で相続争いが起こり、フランク王国は三つに分裂した。843年のヴェルダン条約、870年のメルセン条約によって、フランス地域を支配する西フランク王国、ドイツ地域を支配する東フランク王国、南部を支配するイタリア王国に分かれたのである。これが現在のフランス・ドイツ・イタリアの基礎となるとともに、スイスにおける複数言語圏の確立を決定づけることにもなったのだ。

フランク王国の分裂(世界の歴史まっぷ」より)
三国の境界線辺りに現在のスイスが重なる

ローマ時代からフランク王国時代にかけて、スイス地域にもキリスト教が浸透した。キリスト教は381年にローマ帝国の国教となり、各地に教会や修道院が建てられた。ローマの撤退後、ブルグントやロンバルディアではキリスト教が信仰されたが、アレマンでは七世紀まで独自の宗教が信仰された。その後、アレマンの地での布教活動に生涯をかけた聖ガルスらの尽力もあって、スイス地域全域がキリスト教化した。スイス東部のザンクト・ガレンは、聖ガルスにちなんでつけられた都市名である。教会や修道院は、信仰の拠点のみならず、教育や文化、さらに農業や交通の中心ともなった。人々の生活と信仰は密接に結びつき、宗教共同体がそのまま生活共同体でもあったのだ。

ザンクトガレンの修道院(「世界遺産オンラインガイド」より)

この時代、まだスイスという統一国家はない。その時々の勢力分布によって境界線の引き方が変わる一地域にすぎない。キリスト教という宗教的な紐帯はあるものの、言語的には明らかに異なる地域同士が、なぜ一つの国家として結合するに至ったのか? その答えは、中世における神聖ローマ帝国の成立と、それに続くハプスブルク家の興隆を待たねばならない。

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