連載中国史21 五胡十六国
「五胡」とは、匈奴・鮮卑・羯(けつ)・羌(きょう)・氐(てい)、すなわち4世紀から5世紀にかけて中国北方を割拠した異民族(少数民族)の総称である。もちろん、異民族とは多数派の漢民族から見てということであり、少数民族の側から見れば漢民族こそが異民族にほかならないのだが、それはさておき、中国では歴史上、何度かそうした異民族支配の時代があった。五胡十六国とそれに続く南北朝時代は、北方に異民族、南方に漢民族の王朝が次々と興亡したモザイク支配の時代なのだ。
秦漢帝国と対峙した北方遊牧民族の匈奴は、後漢時代に南北に分裂し、南匈奴は農耕を受容して漢民族と混在しながら定住しつつあった。そこから出た劉淵が漢王を称し、西晋を滅ぼして前趙を建て、五胡十六国時代の端緒を開いたのである。一方、月氏の流れをひく西方遊牧民族の羯は前趙を滅ぼして後趙を建てたが、王朝の衰退とともに歴史から姿を消すことになる。
チベット系の遊牧民族である氐は後趙の混乱に乗じて前秦を建てたが、同じくチベット系の羌が後秦を建ててそれに取って代わった。さらに北方では、モンゴル系の鮮卑が台頭し、前燕から後燕を経て386年に北魏を建国。諸民族との勢力争いに打ち勝ち、439年に華北を統一して五胡十六国時代を終わらせたのである。
南方では司馬睿の建てた東晋が、江南地方の開発を進めた。383年、東晋軍は北方からの前秦軍の侵攻を退け、独立を保った。420年、東晋から禅譲を受けた宋が王朝を引き継ぎ、5世紀から6世紀にかけては、華北と華南にそれぞれの王朝が並び立つ南北朝時代となったのである。
三国時代以前には華北が中国文明の中心とみなされ、華南の開発は相対的に遅れていたが、五胡十六国・東晋時代には北部での異民族王朝の勢力伸長に伴って多くの漢民族が華南に移住し、農業生産力の向上とともに江南地方の開発が一気に進んだ。反面、華北では森林伐採などの乱開発によって砂漠化が進み、経済的にはむしろ南高北低の状況が生まれた。現代中国においても政治の中心は北京にあるが、経済の中心は上海を中心とした江南地方にあるようだ。そのルーツは三国から五胡十六国を経て南北朝へと至る民族大移動の時代、すなわち魏晋南北朝時代にあるように思われるのである。
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