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連載日本史256 再軍備と平和運動

朝鮮戦争の余波は、日本に警察予備隊の創設をもたらし、それが1952年には保安隊へと改組された。同年には皇居前広場でデモ隊と警官隊が衝突する血のメーデー事件が起こり、事件後には破壊活動防止法が成立した。東西冷戦と朝鮮戦争は、独立まもない戦後日本政治の方向性に大きな影響を与えたのであった。

第五福竜丸の被曝を報じる新聞記事(bunshun.jpより)

サンフランシスコ平和条約により、日本の各地に米軍基地が残されることになったが、それに対して多くの反対闘争が起きた。1953年には石川県内灘村の米軍砲弾試射場建設に反対する農民・漁民らの座り込み闘争があり、敗れはしたものの全国の基地反対闘争の先駆けとなった。1954年には南太平洋のビキニ環礁で米国が行った水爆実験により、日本の漁船である第五福竜丸が被曝。乗組員のひとりが「死の灰」を浴びて死亡した。これを機に原水爆禁止運動が大きな高まりを見せ、翌年の原爆忌である8月6日には広島で第1回原水爆禁止世界大会が開催された。一方で日本政府はMSA(相互安全保障)協定に基づき、米国からの軍事援助を得て防衛力の整備を進め、保安隊を自衛隊へと改組。1954年7月、防衛二法の施行に伴い、防衛庁と陸・海・空三軍編成から成る自衛隊が発足したのである。

現在の自衛隊の組織略図(nishinippon.co.jpより)
<2018年の組織改革により、陸上自衛隊が大幅に再編された>

発足当初から自衛隊には憲法上の疑念がつきまとった。日本国憲法九条は自衛権を否定したものではないが、どこまでが「自衛」の範囲で、どこまでが「自衛のための最小限度の実力」なのかが度々議論となり、米軍基地との関係もあって、自衛隊の存在自体が疑問視される状況が長年続いたのである。1955年には東京・砂川での米軍基地拡張反対闘争が警官隊との衝突による流血事件に発展した。社会党・共産党を中心とする革新勢力は、吉田内閣の進める再軍備路線を戦後の民主化政策に逆行するものとして激しく攻撃した。一方、国際社会では1955年にアジア=アフリカ会議がインドネシアのバンドンで開かれ、東西陣営のどちらにも属さない第三勢力形成への模索が始まっていた。

砂川闘争(agora-web.jpより)

敗戦後のGHQによる占領から、朝鮮戦争を契機とした政策転換、西側陣営のみを相手とした単独講和、軍事面も含めた米国との緊密な関係、米軍基地や核の問題などを通じて、国内の政治勢力は次第に保守と革新の二大陣営へと収束しつつあった。1955年、革新陣営で右派・左派の社会党が再統一を果たすと、保守陣営では自由党と日本民主党が合同して自由民主党を結成。戦後の日本政治を象徴する55年体制が始まったのである。

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