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連載日本史㉒ 大化の改新(5)

大化の改新のあった七世紀は、東アジアの政治情勢が大きく揺れ動いた時代だった。中国では隋が滅び、李淵(高祖)・李世民(太宗)親子が、中央アジアにまで及ぶ大帝国である唐を建国した。朝鮮半島では、高句麗・新羅・百済のパワーバランスが崩れ、新羅が唐と連合して勢力を伸ばし、他の二国を脅かしつつあった。ヤマト政権は百済との関係が深く、631年には百済の王子である豊璋を日本に受け入れてもいた。百済の危機は同盟国の危機だというわけである。

7世紀の東アジア(西条市HPより)

国際情勢が緊迫すると権力の集中が進むのは、歴史によくみられるパターンである。七世紀の日本も例外ではなく、大化の改新における急激な中央集権化の改革は、対外的な危機意識に駆られてのものであったのかもしれない。
660年、新羅と唐の連合軍は、とうとう百済を攻め滅ぼしてしまった。百済の遺臣たちは、日本から帰国した豊璋を立てて百済復興を掲げた反乱を起こす。日本は百済救援のために、朝鮮半島に大軍を送り込んだ。663年、唐・新羅連合軍と百済・倭国(日本)連合軍は、黄海沿岸で激突した。いわゆる白村江(はくそんこう)の戦いである。

白村江の戦い(第一法規出版「戦乱の日本史」より)

日本からの百済救援軍は三万人にも及んだというが、内実は豪族軍の寄せ集めに過ぎず、士気は低かったようだ。兵士たちからすれば、何でわざわざ隣国の争いごとに首を突っ込む必要があるんだ、といった感覚だったのであろう。朝廷は士気を高めるために斉明天皇自らが陣頭指揮に立つという形をとったが、戦場に着く前に天皇が病死してしまい、結局は中大兄皇子が称制(天皇代理)として指揮を執ることになった。さらに百済王室の内紛もあって、百済・倭国軍の足並みは乱れ、白村江の戦いは唐・新羅連合軍の圧勝に終わったのである。

北九州に残る日本最古の山城である大野城跡(4travel.jpより)

完敗を喫した日本は、唐・新羅の報復攻撃に備えて、大陸との玄関口である北九州の防衛強化を迫られた。亡命百済人たちの協力のもとに山城や水城が築かれ、対馬・壱岐・筑紫などに防人が置かれた。後世に編纂された万葉集には、家族と別れて遠方の地へ派遣される防人たちの哀しみを歌った多くの歌が収められている。防衛上の理由で都も飛鳥から近江大津へと移された。

福岡・能古島の歴史 防人の島(現地案内板より)

なぜ、それほどまでの犠牲を払ってまで、百済救援に大軍を送り込む必要があったのだろう? 同盟国とはいえ、既に滅んだ国の復興を支援して大帝国の唐に挑むなど、冷静な情勢分析あってのこととは思えない。朝鮮半島のパワーバランスの変化を十分に考慮せず、百済一辺倒の安全保障体制を敷いていたことが、白村江の戦いの大敗につながったのではないか。戦闘が始まる前に、すでに政治的に敗北していたと言ってもいい。

結果的に唐も新羅も日本列島までは攻めて来なかった。668年に唐が高句麗を滅ぼし、676年に新羅が朝鮮半島統一を成し遂げると、蜜月関係にあった両国の対立が深まり、日本はその流れに乗じてそれぞれの国との関係を修復することができたからである。最悪の事態が避けられたのは幸運であった。

刻々と変化する国際情勢下で、単独の同盟国一辺倒の安全保障体制を敷くのは危険だ。遠い昔の話とはいえ、白村江の戦いの教訓は現代にも通じるものが多分にあると思われるのである。





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